オケとヲケ


志染の石窟 「オケ」と「ヲケ」の二人の皇子の物語、2021年01月02日


 昨年、2020年は、日本書紀が編纂されて1300年となる年で、日本書紀にまつわる書籍や放送番組が幾つかありました。古代日本の歴史にまつわるテレビ番組も、昨年は多かったように思います。

 昨年末に古事記に関して調べている中で、何年か前に三木の御坂サイフォン橋を訪れた時に、この近くに大泊瀬(おおはつせ)皇子(後の第21代雄略天皇)に殺された従兄弟の市辺押磐(いちのへのおしは)皇子の2人の息子が逃げて隠れ住んで、後に24代仁賢天皇 と23代顕宗天皇となった、という所縁の場所があることを調べたのですが、そのままになっていたことを思い出しました。

 今朝、ふと、その志染の石窟へ行こうと、思い立ちました。

 早朝に自宅を出て、三木の志染辺りに到着したのが、山間部の志染にちょうど朝日が射込む時間帯でした。神戸よりも寒く、田畑は白く霜に覆われていました。ヒコバエが立ち枯れした田んぼに朝日が射込んで、黄金に輝く一瞬


 畦道も、霜で覆われた枯れ草が、逆光を浴びて黄金色に輝いていました。


 志染川沿いの県道85号線、迷いながら「志染の石室」という案内版を見つけました。


 案内の言葉が、微妙に違います。「志染の石室」、「窟屋の金水」「志染の石窟」・・・どれも同じものを指し示すようです。


 やっと到着しました。「志染の石×」・・・下の漢字は読み取れませんでした。


 駐車場があり、志染の石窟へ至る道にはイノシシ対策のゲートがありました。


 整備された道を進んで・・・


 「二皇子と桜伝説」という説明の標識がありました。桜の木の植樹をしたようです。


 そして志染の石窟です。三木市は「志染の石室」という表記を用いているようです。


 19代允恭天皇の第5皇子だった大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)は、兄の第20代安康天皇が皇室内の争いの中で殺害されたことに対抗して、3人の兄を殺害して、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)と御馬皇子(みまのみこ)をも殺害してし、第21代雄略天皇として即位したそうです。

 大泊瀬皇子の従兄弟にあたる市辺押磐皇子の二人の皇子は、自分たちも身の危険があると、都を去って、針間国[播磨国]の赤石(今の明石)や、美嚢(みの)の志染に逃げ隠れたそうで、それが、この志染の石窟だそうです。

 その二人の皇子が、億計王[意祁王](おけのみこ)と弘計王[袁祁王](をけのみこ)だそうです。

 二人の皇子は、名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗ったようで、志染の豪族であった縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)の下で牛飼い・馬飼として雇われていたようです。

 縮見屯倉首の新築祝いの宴の席で、その宴の席のひとりひとりが祝いの舞いを舞うことになって、その席で火焚き役として竈の近くで控えていた二人の皇子にも舞いを舞わせようとしました。

 二人の皇子は、それぞれ舞いを舞った後に、弟の弘計[袁祁](をけ)が、歌を詠んだそうです。

「物部(もののふ)の 我が夫子(せこ)が 取り佩(は)ける 太刀の手上(てかみ)に 丹書(にか)き著(つ)け 其(そ)の緒(を)には 

赤幡(あかはた)を載せ 赤幡を 立てて見れば い隠(かく)る 山の三尾(みお)の 竹をかき苅(か)り 末押(すゑお)し縻(ひな)かすなす

八絃(やつを)の琴を調ぶる如(ごと) 天の下治めたまひし 伊邪本和気(いざほわけ)の天皇(すめらみこ)の御子 市辺(いちのへ)の押歯王(おしはのみこ)の 奴末(やっこすゑ)」

〜〜「武人の我が兄上が取り佩いている太刀の柄に、赤い模様を塗りつけ、その紐(ひも)には赤い旗をつけ、

その赤い旗を立てて見れば、隠れて見えない山の尾の竹を刈り、その竹の先をを押しなびかせるように、八絃(はちげん)の琴を奏でるが如く、

天下を治めになられた伊邪本和気(いざほわけ)の天皇(履中天皇のこと)の、御子の市辺押歯王(いちのへのおしはのみこ)の、今は奴(やっこ:奴隷のように使われている身)となった子です」〜〜

 弟の弘計[袁祁](をけ)は、自分たちが安康天皇の弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)に、殺されてしまった従兄弟の市辺押磐皇子(いちのべのおしはのみこ)の子であることを、この宴席で明らかにしたわけです。

 その席にたまたま居た朝廷の役人の小盾連(をだてのむらじ)は、早馬の使いを都に走らせて、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)に知らせたとのこと。

 飯豊青皇女は第22代清寧天皇の崩御後に一時政を執ったとされる王女で、古事記によれば清寧天皇崩後に皇嗣がなかったので、飯豊青皇女飯が執政していおり、そこに市辺押磐皇子の二人の皇子が志染で見つかったので都に迎え入れて即位させたとのことです。ただ日本書紀では、その経緯が異なっています。

 弟の弘計皇子(袁祁王)(をけのみこ)が歌を詠ったことで明らかになったので、ヲケが先に第23代顕宗天皇として即位し、その後に兄のオケが24代仁賢天皇として即位しました。



 第26代継体天皇以降を実在とする説があり、それ以前は第21代雄略天皇については実在が実証されているといわれています。

 また第24代仁賢天皇から第33代推古天皇までの天皇は「欠史十代」と言われて、古事記に事績の記述がありません。

 これらのことより、オケとヲケの二人の皇子に関しては貴種流離譚と言う説が有力のようです。ただ、いろいろと実在していても辻褄が合うようなことが多いようで、貴種流離譚の伝説とも言い切れないようで、史実も含まれているという意見の少なくないそうです。





 この石窟に、二人の皇子が、ほんとうに隠れ住んでいたのか?ちょっとわかりません。


 石窟内の、これが「窟屋の金水」だそうですが、最近は金色に輝くことはないそうです。天然記念物の藻が生育しているそうです。


 石窟の周辺の写真です・・・




 そして、3枚の案内・説明の標識がありました。






 正月2日目の早朝、古事記に描かれている、古代の二人の皇子の物語に思いを馳せるひとときでした。