2018年


2018年を振り返って


 2018年の元旦の朝は、明石市南二見の人工島の東の岸壁から、明石海峡に上る「初日の出」を眺めました。

 瀬戸内海の東端になる「播磨灘」の海面(うみも)のオレンジ色の輝きを、しばし見つめていました。


 南二見の人工島の東岸壁は、絶好の初日の出のポイントのようで、たくさんの人が集まって、車が渋滞になります。日の出後、すっかり明るくなった後は、寒いのでそのまま車に戻りました。


 翌1月2日は龍野の旧市街に向かいました。龍野城です。この山の上に山城があったそうですが、まだ登ったことはありません。


 龍野の古い町並み、醤油の産地です。関東は銚子や野田、関西では由良と龍野が有名です。


 そして三ケ日の最後の1月3日は初サイクリングで大蔵海岸まで往復して、夕方には舞子墓園から播磨灘に沈む夕陽を眺めました。明石海峡大橋や淡路の島影を赤く染め、播磨灘をオレンジ色に染める夕景を、時の経つのを忘れて見入っていました。


 1年でもっとも日の出の時刻が遅く、朝が遅いのが1月の7日前後です。朝、元町駅や三ノ宮駅で降りて薄暗い神戸の街を本務校に向かって歩いています。

 JRと阪急の高架下にある通路兼駐輪場です。

 冬の朝の出勤時に目にする風景の一コマです。


 三宮本通り、元町と三宮の間の東西のストリートで、日の出の最も遅い時期の出勤時には、東の空の端がオレンジに染まって、日の出の兆しが・・・


 阪神淡路大震災があった1月17日の午前5時46分には、東遊園地で黙祷するようになって数年になります。今年は雨でした。


 雨で、ロウソクの灯が消えてしまい、竹とうろうの灯が薄暗い闇に隠れています。


 2月8日には、本務校から徒歩圏内になる神戸高校のSSH課題研究発表会に向かいました。講堂での発表会は、ポスターセッションとオーラルセッションで1年間の成果を生徒たちがプレゼンテーションします。


 オーラルセッションでは、保護者の方々がスマホやビデオで撮影されていました。


 外部から指導する大学教員や卒業生が、質問やアドバイス等々、ポスターセッションも一方通行ではなくて、結構ディスカッションのネタとなっていました。


 3月2日は、兵庫県教育工学委員会で、姫路の日本工学院を訪問しました。

左官のワークショップで、実際に壁塗りを体験しました。


 大工のワークショップ、木材加工のワークショップです。


 自動車整備も専門で、EV車の見学です。


 3月8日、西播磨をドライブしました。室津のあたり、古い港町があって国道250号線沿いの播磨灘を望む景色がお気に入りです。


 岩場の海岸から、播磨灘の小島を望む光景、まだ春は遠く、海風が冷たかったです。


 3月18日は「感覚をつないでひらく芸術教育を考える会」があり、京都市立芸術大学音楽学部の岡田先生による「「楽器を使わないで音楽しよう!」のワークショップです。


 いろいろなワークショップがありました。


 最後は兵庫教育大学のマスターコースの学生によるパフォーマンス


 3月22日、帰路、東の空に虹、それも2重の虹でした。


 3月27日、すっかり春めいて、桜の花が咲き誇っています。新生田川沿いの朝の出勤時に、川沿いで桜を愛でました。


 3月31日、西二見までのサイクリングの途上で、舞子の山田川右岸にある砂浜からの眺め。淡路の島影と明石海峡の架け橋、そして砂浜に打ち寄せる波・・・春の光景です。


 明石市の海岸線は、ウミガメが散乱する砂浜が続いています。そして県道554号姫路明石自転車道線の歩行者・自転車専用の道が砂浜沿いに続いて、サイクリングには最適です。


 4月に入って・・・地元の神戸・垂水の街にある垂水センター街です。古くからの地元の店が軒を連ねて、また垂水廉売市場ともつながっています。


 4月20日の出勤時に目にした朝焼けです。摂津と播磨との国境の鉢伏山の稜線がクッキリと朝焼けのオレンジ色に浮かんでいます。


 4月22日、サイクリングの途上で目にした明石・ます。松崎海岸です。砂浜のすぐ近くまで海苔の養殖のブイが見えて、船が行き交っています。


明石・魚住の住吉神社の境内の藤棚は見応えがありますが、まだ見頃はだいぶ先のようです。それでも十分楽しめました。


 4月24日、知人から招待券をいただいたヴィオラリサイタルのために西宮の県立芸術文化センターへ向かいました。


 小ホールは、全体がウッディーで、天井が高くて音が綺麗に響きます。ご招待いただいた方がピアノで、ジョージア出身のヴィオラ演奏家とのリサイタルです。

 新年度に入って、多忙な3週間でしたが、ゆったりと音の響くホールで、ヴィオラとピアノの響きを聴いて、疲れがとれたような感じです。


 4月22日には自転車で加古川を渡って、高砂まで往復70キロ、別府鉄道と国鉄高砂線の廃線跡を巡りました。国道250号線の側道のサイクリング道路で加古川を渡りました。向こう岸は高砂市です。


 帰路、江井ヶ島の付近で濃霧、数十メートル先が見えないような状況でした。


 5月の連休が過ぎて、出勤時に元町駅で降りて、元町商店街と神戸の中華街である南京町を結ぶ路地裏の光景、此処の光景が好きでよく写真を撮ります。


 三宮駅とそごうの間を結ぶ地下道です。昔は市電の停留所を地下で結んでいた連絡道だったようです。なんとなくレトロな雰囲気の地下道の光景が好きです。


 神戸に古くからある神社のひとつ「生田神社」の門前町のようなものが発祥といわれる生田神社の東に位置する東門街です。東西の道路と斜交しているのは、明治初期に、居留地の外国人のための競馬場が此処にあって、その競馬場跡だそうです。


 三宮地下街、通称「さんちか」の阪神三ノ宮駅とそごう神戸店の間の光景です。

 朝の通勤時、元町駅から歩いて、さんちか経由で本務校に向かうことも多いです。


 6月24日、梅雨に入って夏至も過ぎて、本格的なサイクリングシーズンに向けて、昨日は、購入したサイクルショップで愛機を無料点検してもらいました。倒したこともあって、少し前輪がガタがきていましたが無料点検の範疇で直してもらえました。少し錆が出ているとのことで、薦められた錆止めのオイルを買って・・・
 久し振りのサイクリング、昨日は激しい雨が降っていましたが、お昼前から快晴で、正午に自宅を出て、舞子公園へ、一面の白爪草を、移情閣をバックに・・・


 今日は、明石・魚住の瀬戸川河口辺りまで、瀬戸川の左岸には「来楽」の茨木酒造があり、酒蔵の横に田んぼがあります。田植えが終わったばかりのような田んぼです。


 7月15日、天気予報では、今日は猛暑になるとのこと、最高気温が36度以上になるかもしれず熱中症対策を万全に・・・ということでしたが、朝5時過ぎに自転車で自宅を出て姫路まで100キロのサイクリングです。

 県道自転車を西へ向かって、加古川を渡って、高砂市内を山陽新幹線の高架沿いの県道自転車道を姫路に向かって・・・


 9時に姫路城に到着しました。姫路城前で愛機の記念写真です。


帰路は暑くなったこともあってゆっくりと走りました。加古川の浜の宮公園の松林、此処で休憩、木陰は、ちょっとひんやりしていました。


 松崎海岸は海水浴を楽しむ人で賑わっていました。


 この夏休みは、2度、本務校へ自転車で通勤しました。途中、神戸港のメリケンパークで「BE KOBE」とオリエンタルホテルをバックに・・・




 8月1日から8月6日まで、足利での出張があり、東京にも立ち寄りました。。

 千葉、東京、埼玉で働いていた約10年の間は、あまり古い東京や江戸の街景色に興味がありませんでしたが、数年前から折を見つけて東京の街探索を続けています。

 久しぶりの隅田川の川下りです。落語にもよく登場する「吾妻橋」です。


 「佃島」という落語の舞台となった佃島です。今は石川島と地続きとなって、橋も出来て、東京ベイエリアの一角です。落語「佃島」の時代とは大違いです。


 浜離宮恩賜庭園です。甲府藩の下屋敷の庭園が元だそうですが、その後徳川将軍家の別邸として浜御殿となって、明治維新後は皇室の離宮となり戦後は都立公園となって一般公開されています。


 午後の築地市場です。此処も秋には豊洲に移転します。


 築地の場外市場は平日の午後も賑わっていました。場外市場は豊洲に移転せず築地の地に残るそうです。


 銀座の教文館です。キリスト教関係の書籍のフロワーもあり、その一角には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産となった記念で隠れキリシタン関連の書籍が並んでいました。

 此処は「赤毛のアン」の訳者である村岡花子が勤めていた出版社だったビルで、朝ドラの「花子とアン」放映中は村岡花子が座っていたデスク跡の案内がありましたが、今はもうありませんでした。


 浅草ロック裏路地のホッピー通りは、平日の午後にも関わらず賑わっていました。


 都電荒川線、三ノ輪橋終点です。


 三ノ輪橋から「泪橋」を経て、「山谷」です。かつてはドヤ街として名を馳せていましたが、今は外国人旅行者が安い簡易宿泊所に泊まることも多いそうです。


 山谷のひとつのシンボル「玉姫公園」・・・公園の一角はブルーシートで覆われており、此処で寝起きする人も、まだまだ多いようです。


 山谷掘沿いの堤にあった「見返り柳」です。桂文楽の十八番である「明烏」では、ひとつのシンボルとしてこの見返り柳が登場します。この東側一帯が吉原です。


 吉原の町中を避けて・・・ここは吉原の「カフェー建築」として有名な角にアールがついたモダンな「岩淵荘」です。昔は「プリンス」と言われていたそうです。


 本郷の東京大学の構内にある東京大学総合研究博物館では特別展として「珠玉の昆虫標本 ーー江戸から平成の昆虫研究を支えた東京大学秘蔵コレクション」が開催されて、いつもと違ってすごい賑わいです。膨大なコレクションに圧倒されました。


 三四郎池、夏目漱石の小説「三四郎」でシンボル的な存在で、育徳園といわれる加賀藩上屋敷の大名庭園につくられた「心字池」だった池です。熊本の五高を卒業して上京した三四郎が、はじめて美禰子に出逢ったのが、この三四郎池の畔でした。

 ストレイシープ・・・三四郎のキーワードも、この池を巡っているように思います。
 


 谷中の全生庵です。落語の名人、三遊亭圓朝の墓があり、8月11日の圓朝の命日周辺には、落語協会や円楽一門会が圓朝まつりと題してイベントを催しています。


 団子坂の上、千駄木の住宅地の一角に、漱石旧居跡があります。此処に住んでいた時の様子が「吾輩は猫である」という小説になったようです。


 早朝の明治神宮の参道・・・


 境内の朝もやが朝日で輝いて、神秘的な光景を醸し出していました。


 代々木公園の西側、小田急線の線路沿いにある「春の小川」の石碑です。ここに以前、河骨川(こうほねがわ)の流れがあって、その光景が歌となったのが童謡「春の小川」だそうです。


河骨川は、代々木公園の西側を流れて、宇田川に合流して、渋谷のセンター街付近、そして西武百貨店渋谷店A館とB館の間を流れて渋谷川に至ったそうです。今は暗渠になっています。


 宇田川沿い、三角交番の少し北側の井の頭通りに面した地下の店、昔とは店が変わっていますが、思い出のあるレストランです。


 両国の回向院にあるねずみ小僧治郎吉の墓です。墓の前にあるのは・・・参拝客が長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓の「お前立ち」を削って持ち帰ってお守りにするそうです。


 両国から隅田川沿いを深川まで歩いて、深川芭蕉庵跡の近くに「芭蕉稲荷」を見つけました。俳聖と呼ばれていたのは知っていましたが「芭蕉稲荷」が実際にあるのは驚きました。


 四国の讃岐出身の平賀源内が深川・清澄の自宅で、長崎で手に入れたオランダ製の静電気発生装置エレキテルの構造を解明し、たびたび実験したことを記念する石碑です。

 電気を専門とする者として、一度訪れたかった処です。


深川の清澄庭園です。 江戸・元禄時代に豪商・紀伊国屋文左衛門の屋敷跡だそうで、明治以降は三菱財閥の岩崎家が手を入れ、今は東京都の公園となっています。関東大審査の時には、近隣住民の避難所として、火災から多くの人命を救ったそうです。


 隅田川を渡って水天宮、そして人形町です。人形町の玄治店(げんやだな)の石碑です。

 与三郎とお富で有名な「与話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)」の舞台として、春日八郎が歌った「お富さん」で有名です。

もともとは徳川家の御典医であった岡本玄冶が幕府から拝領した土地に借家を建てて庶民に貸したことから一帯が「玄冶店」と呼ばれたそうです。


 富士そばの人形町店・・・つい立ち寄ってしまいました。ざるそばを食べました。


 秋葉原の電気街です。ヲタクの街、サブカルチャーの街として海外でも有名になりましたが、元々の電気街としての店舗も健在です。ラジオデパート等の小売店が軒を並べる光景は、大阪日本橋ではめっきり少なくなりましたが、秋葉原では規模は小さくなりました賑わっていました。


 街角に仮面をかぶった姿を見ました。

 知りませんでしたが、秋葉原に常設劇場がある最強の地下アイドル「仮面女子」だそうで、おそらく街角にいたのは研修生だったようです。


 日本橋の三越本店のライオン像です。


江戸時代初期に幕府に仕えていたイングランド人航海士・ウィリアム・アダムス(三浦按針)の屋敷跡の石碑が日本橋室町にあり、その前の通りが按針通りと名付けられていました。

 今まで、三浦按針の所縁の地として、横須賀市・逸見にある三浦按針の領地、此処には按針の供養塔があり、京急の安針塚駅があります。また長崎・平戸はイギリス商館開設に関わった按針終焉の地であり、崎方公園には「三浦按針の墓」があります。今回で所縁の地として3ヵ所目です。


 東京の外国人居留地として築地の鉄砲洲がありましたが、横浜居留地の外国商社は港に近い横浜の地を動かず、鉄砲洲は主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入りました。多くのミッションスクール等の発祥地の記念碑が彼方此方ににありました。福沢諭吉の慶応義塾の発祥の地の碑もありました。


 有楽町のガード下・・・ここのレストランも思い出深い場所です。


 関東平野の最奥部、赤城山の麓にある栃木県足利市です。

 渡良瀬川が流れて、足利に着いた夕方には、渡良瀬川の川面を夕陽がオレンジ色に染めて綺麗でした。夕陽の向こうに渡良瀬橋があります。


 渡良瀬橋です。足利市に来て、森高千里が唄った「渡良瀬橋」の地であることを知りました。渡良瀬橋を訪れてから・・・森高千里の「渡良瀬橋」がお気に入りの唄になりました。

 荒井由実のセカンドアルバム『MISSLIM』(ミスリム)に収録されていた「海を見ていた午後」を、山本潤子(旧姓新井潤子・赤い鳥、HiFi Set)がカバーで歌っているのを聴いて・・・横浜に向かったことがありました。横浜の山手、実際には根岸駅から丘を上ると「ドルフィン」というレストランが舞台の唄で、唄を聴いて旅立った例ですが、今回は逆で、旅先で唄の舞台を訪れて、その唄がお気に入りになりました。


 足利にある日本百名城のひとつ「金剛山鑁阿寺(ばんなじ)」です。足利氏の館として百名城に選ばれています。


そして「学校」という看板がある「足利学校」をです。

江戸期には「学校」を名乗れるのは幕府の昌平坂学問所だけだったそうですが、それよりも歴史の古い足利学校と岡山の「閑谷学校」だけは「学校」を名乗ることが出来た由緒ある学校です。鎌倉期から室町時代、戦国時代までの関東での最高学府だった学校です。


鎌倉期から室町時代、戦国時代までの関東での最高学府だった学校です。


 足利大学(旧・足利工業大学)での2日間の講習会に参加しました。


 足利市内には、織姫神社があり、ちょうど旧暦の七夕祭りで、旧市街地の通りはお祭りで賑わって、猿回しも・・・


 


 8月24日から8月27日まで、信州大学での産業技術教育学会全国大会の学会発表のために信州に向かいました。

 前日が近畿地方を台風が襲い、8月24日早朝は、山陽道が不通のまま、阪神高速経由で向かいましたが、台風直後で普段だと渋滞の箇所もスイスイと走って・・・小牧インターにかなり早く到達しました。


 中央道、長野道を経て松本市に立ち寄りました。

 駐車場に車を停めて、積んでいたロードバイクを組み立てて・・・松本の街をサイクリングしました。

 開智学校です。


 文明開化時代の小学校建築を代表する建物として有名ですが、明治期の古い資料等も多く、学校に通えない子守りを対象にしたクラスや特別支援教育の曙光のような内容も開智学校で行っていたようで、日本の初等教育の先駆けのような教育内容がなされていたようで試行錯誤の姿を垣間見ることが出来ます。


 松本城です。残念ながら50分〜60分待ちの行列で、中には入りませんでした。城ブームで、各地の江戸期からの城郭は人気が高いようです。



 松本市から、長野自動車道、上信越自動車道を経て長野市へ。

 信州大は、長野市内に工学部キャンパスと教育学部キャンパスの2か所が結構離れていることを知らずに、工学部キャンパスに近いホテルを予約していました。結局、ホテルと大学の往復のために車に自転車を積みました。

 信州大学教育学部キャンパスです。もと師師範学校があった場所で、善光寺が近いロケーションです。

 今回の学会発表のテーマは
「工業高校における課題研究での 工業英語の実践例」
でした。主に昨年の課題研究での取り組み、それに併せて今年度の電気基礎での取り組みに関してでした。



 交差点「善光寺」、善光寺前の交差点です。

学生時代、はじめて学会に出席したのが信州大学でした。当時は電気系の専攻でしたので工学部キャンパスで、先輩の車に乗って新潟から日帰りでした。

 その時に、善光寺前の交差点をゆっくり走って、「此処が善光寺」と車窓から目にした記憶が残っています。その光景です。


 善光寺前に「長野県道路元標」と「長野市道路元標」がありました。

長野は門前町なので善光寺前が基準になったのかもしれません。


 はじめて善光寺を訪れました。

「牛にひかれて善光寺詣り」のフレーズが有名ですが、これが「牛にひかれて善光寺詣り」という昔話からきているそうです。


 宿泊したホテルの近くにある信州大学工学部キャンパスも自転車で訪れました。学生時代のことで記憶は曖昧ですが、校舎の後ろに並木がきれいだったのが記憶にあり、実際に並木が連なる処がありました。



飯綱高原の奥に戸隠神社があり、車で1時間余り・・・予定にはなかったですが戸隠神社に向かいました。長野市内から車で山道をひたすら上って・・・飯綱高原に上ると、一面雲海・・・長野市内は、この雲の下になります。


 戸隠神社は、宝光社、火之御子社、中社、そして奥社と九頭龍社からなっています。宝光社と中社には立ち寄りましたが、火之御子社は駐車場が小さく満車だったので諦めました。

 もっとも奥にある奥社と九頭龍社に向かいましたが、戸隠森林植物園の駐車場に停めて、森林植物園を散策しました。


 奥社の向かう参道です。約2キロぐらい参道が続いて、1時間足らず掛かりました。


 奥社です。この手前に九頭龍社がありました。


  犀川と千曲川に囲まれた川中島、長野と松代の中間に位置します。

 この川中島に、越後の上杉と、甲斐の武田が戦ったとされる「川中島古戦場」があります。武田信玄と上杉謙信の一騎討像があります。


 松代です。松代は六文銭の真田幸村の城下町です。

 松代城です。


 松代に残る「文武学校」です。江戸後期に松代藩に創設された藩校です。


 文武学校の一部の部屋を使って、現代アートの展示をしていました。


 そして松代大本営跡、太平洋戦争末期に日本の政府中枢機能を東京から疎開・移転するためにのために掘られた地下坑道跡で、象山地下壕が公開されています。


松代は、また佐久間象山が生まれ育った処です。象山神社があり、佐久間象山は祭神として祭られていました。勝海舟の妹が象山に嫁いだことでも有名です。

 象山は、朱子学者・思想家ですが、日本で最初に電信の実験をしたのが象山とも言われています。また文献をもとにカメラを試作したとのことで、象山記念館には展示されていました。


 長野を出発する日、最後に千曲川沿いのサイクリングを楽しみました。


 往路は、名神・東名・中央道経由でしたが、復路は中央道から東海環状自動車道を経て、伊勢湾岸自動車道、東名阪自動車道、そして新名神を経由しました。名古屋に入ると分岐点が多く、看板を凝視して迷わないようにしました。結局は、ほぼ前進ばかりで、名古屋港のかなり南を、ほぼ木曽川、長良川の河口付近を通過したようですが・・・実感がありません。



 信州行きから神戸に戻った翌日、車から自転車を下ろして、播磨灘沿いをゆっくりとサイクリングしました。しばらく信州で山と川の景色の中にいたので、松崎海岸の砂浜で、波音を耳にしながら潮風を浴びて播磨灘の景色を眺めました。


 そして住吉神社前の草叢で、虫の音を生禄・・・


 その翌日の8月29日、神戸港の第一突堤の神戸みなと温泉へ・・・


 ゆったりと温泉につかって、夕食はバイキングです。


 アラカルトにあれこれとって、メリケンパークやハーバーランドを見下ろせる西の窓側の席でのディナー


 夕刻を過ぎて、窓越しの港の景色がきれいでした。


 大浴場もゆったりと愉しみましたが、部屋でも港の景色を窓越しに眺めながら温泉が愉しめます。


 夏休みが終わって・・・普段の出勤風景です。最寄り駅のJR神戸線・垂水駅です。


 9月15日と16日は、兵庫県立大学工学部キャンパスでの教職課程の集中講義があり、2日間、朝から夕方まで講義が続きました。


 今年は受講者が少なく、KJ法をさせても、あれこれと多様な意見は出ませんでしたが、深い議論が出来たように思います。


 9月24日には、神戸農業公園・神戸ワイン城へ行きました。

 久し振りに一眼レフカメラを持って、薄暗い地下のワイン貯蔵庫を撮りました。

 11月11日は、午後から大阪へ、大坂大学中之島キャンパスでの市川伸一先生の講演会に参加しました。

 堂島地下街・・・昔はおじ様郷用達のような店が並んでいましたが、今は普通の地下街になっています。

 昔、大坂大学の付属病院があったあたりです。現在はRed&Blue streetと名付けられた散策コースです。

  兵庫教育大学連合大学院主催の講演会に東京大学教育学部の教育心理の第一人者である市川先生を呼んでの講演会です。市川先生は今年で退職だそうです。

 子どもたちの理解を巡っての「学び」に関して、いろいろと示唆を受ける講演でした。

 神戸ルミナリエ初日の早朝のルミナリエ会場です。

 残念ながら今年はルミナリエを楽しむことが出来ず、早朝に会場を通り過ぎただけでした。

 12月22日は、奈良教育大学での、産業技術教育学会近畿支部大会に向かいました。奈良教育大学のキャンパスは初めてです。ならまちの西、志賀直哉の旧居の北側に位置します。近鉄奈良駅から小雨の中、ならまちを散策しながら奈良教大に到着しました。

 結構参加人数が多く、席が足りないほどでした。

 学会発表の内容は
『「電気基礎」 における生徒のセンスと
習熟度・生活習慣との関連性』
でした。主に今年度の電気基礎での実践報告でした。

 ならまちを散策するのは久し振りです。

 大学の写真部でしょうか?それともゼミの研修かもしれません。熱心に撮影していました。

 奈良公園近く、道路を鹿が横断していました。神戸ではありえない光景ですが、おそらく奈良公園近辺では日常のようで、車は徐行しながら鹿が通り過ぎるのを待っていました。

 2018年の1年を振り返って、いくつかの写真と文章をまとめました。

 今年は1年間で約1万4千枚の写真を撮って、その中から100枚あまりの写真を選びました。