高山右近の足跡を辿って・・・


高槻城、2016年1月31日


 戦国時代には羽柴秀吉によって播磨国明石郡に領地・6万石を与えられて明石の船上城城主として明石の殿様だった高山右近は慶長20年(1615年)に国外追放されたマニラの地で亡くなっています.

 昨年・2015年が没後400年となって,キリシタン大名として,大名の地位を捨てて信仰を貫いた殉教者として、日本のカトリック中央協議会は高山右近を福者に認定するようにローマ教皇庁に申請していました.

 没後400年となる昨年・2015年に福者には認定されませんでしたが,年が明けて2016年1月22日に教皇フランシスコが高山右近の列福を認可したとの報が入りました.

 2016年2月に,大阪の司教座教会(玉造教会)で列福式が行われるようです.2008年にペトロ岐部と187殉教者が長崎で列福して以来,日本での列福は2回目になるようです.

 列福の報を受けて,その週末にも高槻を訪れるつもりが,強烈な寒波到来で,1週間を隔てた1月31日に高槻に向かいました,

 高槻…通勤で,時々高槻行きの各駅停車に乗りますし,京都を訪れるときにはJRや阪急で高槻を通過しますし,新幹線に乗っても高槻を通過しますが,今まで高槻に降り立ったことはありませんでした.

 今回初めて高槻に降り立ちました.阪急は「高槻市駅」です.


 駅の南口から「城北通り」を抜けると国道171号線,京の町から西国へ至る旧西国街道です.国道171号線を渡ってさらに南に進むと,大きなドームの建物が目に入ってきました.カトリック高槻教会です.そして大きなドーム状の建物は,高山右近記念聖堂です.


 カトリック高槻教会は,高山右近が建設した天主堂に由来があるわけではなく,長崎や横浜の教会のように幕末に居留地の外国人向けの教会として建てられたわけでもなく,また明治6年(1856年)にキリシタン禁制が廃止された直後に建てられた教会でもなく,太平洋戦争終結後の昭和21年(1946年)に「高山右近顕彰碑」と「記念聖堂」の建立が計画され,クラレチアン宣教会の主導で昭和29年に仮聖堂が建てられ高槻教会の創立に至ったそうです.

 現在の「高山右近記念聖堂」は昭和37年に献堂式が行われたそうです.そして昭和40年には「高山右近列福運動」が始まったようです.


 教会の敷地内には高山右近の像があり,聖堂に向かって跪いています.


 角度を変えて写真を撮りました.空が抜けるように青く・・・


 高槻教会から南へ少し歩くと,高槻商工会議所の敷地に「高山右近天主教会堂址」の石碑が建っていました。

 此処は高槻城の城の高山右近が城主だった頃には2重の堀の外堀のすぐ北側となって,当時は高槻城に面したお堀端の一等地だったのかもしれません.


 高槻城の二の丸の北側,お堀端に位置する野見神社。

 平安時代の宇多天皇の世に,この辺りに疫病が流行り,ご神託によって牛頭天王(ごずてんのう)を祀ると疫病が治まったので、社殿を造営したのが野見神社の始まりのようです.江戸時代までは「牛頭天王社」と称していたようです.


 城内守護の神社だったのが,キリシタン大名の高山右近が城内の社殿を破壊したそうです.その後,江戸幕府の世になって元和5年(1619年)に高槻城主となった松平紀伊守によって社殿は再建されたそうです.

 明治になって神仏分離により祭神の名を須佐之男命(スサノオ)に変更し,野見宿禰命(のみのすくね)を合祀して「野見神社」に改称して現在に至った歴史を持っています.

 キリシタン大名・高屋右近による社殿の破壊と,明治維新の神仏分離による祭神の変更という大きな波を受けたことになります.


 野見神社の摂社に,永井神社あります.「永井」は,慶安2年(1649年)に江戸幕府によって転封で城主となった永井直清を神として祀った神社です.9代目となる永井直進が創建した神社です.


 永井神社の傍らに「永井先公遺愛碑」という大きな石碑が建っていました.慶安2年(1649年)から幕末まで高槻城主で,高槻の領主・高槻の殿様だった永井氏を遺愛する石碑です.


 野見神社の南は、高山右近の時代には外濠越しに二の丸だった処です。今は野球の練習場のようなグランドとなって、その南側は木立が残る遊歩道のようになっています。


 更にその南は、道路を挟んで高校があります。この道路は二の丸と本丸の間の内堀だったようです。

 高校には「大阪府立島上高等学校」という石碑が建っています。戦後、陸軍の駐屯地となっていた城跡に創立された新制高校です。


 現在は、統廃合の結果、大阪府立槻の木高校となっています。此処に高槻城の本丸があったことになります。


 高校の敷地の横に「高槻城跡」の小さな石碑がありました。背後に写っている建物は、塀越しの高校の校舎です。


 槻の木高校の東側には、城跡講演があります。其処に銅像が・・・


 高山右近の銅像です。


 三の丸跡で、大名屋敷の庭だったのかもしれませんし、明治に入って城は取り壊されて陸軍の駐屯地だったので、戦後に造られた池かもしれません。


 城跡公園から北側・・・向こうに見える建物は、戦後に建てられた中学校です。江戸期には厩郭だった処になります。


 城跡公園の梅の蕾が膨らんで、咲きかけている花もありました。


 城跡公園の北、野見神社の東、厩郭の北端の、高山右近の時代の外濠に面した処に「しろあと歴史館:があります。


 常設展の入り口・・・お城に入っていくようなイメージの入り口となっています。


 城と城下町の模型です。



 江戸期の200年に渡って永井氏が高槻城の城主で、そのママ明治維新を迎えました。

 永井氏の宗家は、徳川家康の家臣・永井直勝で、小牧・長久手の戦いでは池田恒興(息子の池田輝政は姫路城の初代藩主で現在の姫路城を築いた)を討ち取る大功を挙げています。

 作家の永井荷風や三島由紀夫は永井直勝の子孫となります。

 永井直勝の息子の一人が永井直清で、高槻城の城主になって、その後幕末まで永井氏が高槻城主となります。

 永井直勝の跡を継いで永井宗家の2代目となったのは永井尚政です。その息子・永井宗家3代が永井尚征で、丹後宮津藩に転封となります。その息子(次男)が永井宗家4代・永井尚長です。

 尚長は第4代将軍徳川家綱の死去に伴う芝・増上寺での法会の奉行に任じられたのですが、法要の最中に志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に刺殺されています。(増上寺刃傷事件)

 内藤忠勝は切腹となりました。内藤忠勝の甥は播磨赤穂藩主・浅野長矩で、21年後に江戸城松之大廊下で、旗本・吉良上野介に斬りつけたとして切腹に処せられています。

 ・・・そんな話をボランティアのハッピを来た説明員に丁寧に説明を受けました。あれこれ永井家のことを30分余り。高山右近のことには触れませんでした。

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 高山右近のコーナです。高槻城と言えば高山右近の名前が出ますが、実際には高山氏が城主だったのは、戦国時代の12年間だけです。

 


 江戸期の地図が展示していました。高槻は京都から西国諸国への西国街道の芥川宿の近くになります。また淀川の近くで、京・伏見と大阪・八軒屋とを結ぶ三十石の船が通う位置となります。


 三十石の船の模型です。


 そして三十石に関する展示パネルもありました。


 常設展とは別に企画展として「錦絵と土人形に見る江戸の人気者」があり、立ち寄りました。

 弁慶や牛若丸、平敦盛や源義経、太閤や加藤清正、武田信玄や仮名手本忠臣蔵etcの人形が並んでいました。

 その展示のひとつに浄瑠璃「国性爺合戦」のコーナーがありました。国姓爺は江戸時代の人気者だったようです。

 昭和天皇ご宿泊の平戸のホテル・旗松亭が破綻の報に接し、平戸との縁も深く、また職場の先輩が最近、国性爺合戦の浄瑠璃を鑑賞したばかりです。


 和唐内の人形です。宮城県の堤人形というそうです。



 地元の神戸新聞にも高山右近の福者認定に関連して、高山右近が築いた明石・船上城に関する記事がありました。

 神戸新聞 2016年1月25日27面