野崎詣り & 真田丸


野崎観音_真田丸 〜大阪、2016年1月17日


 1月17日、神戸・東遊園地での早朝の「阪神淡路大震災1.17のつどい」の後に大阪に向かいました。木曜日(1月14日)に、三代目桂春団治の訃報に触れました。1月9日に亡くなられたとのこと・・・

 10年程前に、大阪ミナミの地下街で、着流しの春団治とすれ違ったことがあります。思ったよりも小柄だなあ〜と、粋な着流しで弟子か或いは付き人を連れて颯爽と歩く姿が印象的でした。

 子どもの頃、上方落語では春団治と小米(その後の枝雀)、東京では円生と志ん朝が好きでした。中でも春団治が一番好きだったように思います。

 野崎詣り、いかけ屋、代書屋、平林、親子茶屋、祝いのし・・・。寿限無も春団治の噺をテープに録って覚えていました。

 中でも野崎詣りは好きでした。京・伏見との間の淀川を三十石で結ぶ、天満橋の近くの八軒家から寝屋川をさかのぼって、昔は野崎観音の西側にあった深野池という大きな池まで舟に乗って参詣したようで、舟の参詣客と、土手を歩く参詣客との間で『振売喧嘩』・・・口喧嘩をしたそうで、喧嘩に勝てばその年の運が良いという運定めの喧嘩だったそうです。

 その喧嘩の様子を噺にしたのが野崎詣りです。

 ・・・春団治の訃報に触れて、今まで行ったことがなかった野崎観音に向かいました。



 野崎という駅はJR片町線、乗り換えを調べていると、JR神戸線の各駅停車でJR東西線経由の四条畷行きや松井山手行きに乗れば乗り換えなしでした。位置関係さえ今まで知りませんでした。

 ただ各駅停車だけだと時間が掛かるので三宮駅から快速で尼崎駅へ。そこで東西線に乗り換えるのですが、JR東西線には「快速」の設定があることにはじめて気付きました。でも車両は各駅停車と同じです。


 野崎は快速が停まらないので途中の放出(はなてん)で降りて各駅停車を待ちました。昔、放出中古車センターのテレビコマーシャルがよく流れて、「ハナテン」という地名は耳慣れていましたが、初めての放出です。


 野崎駅・・・駅前に「野崎橋」があり、寝屋川の支流の小さな流れがありました。


 此処を屋形船は無理ですが、野崎詣りの期間中だけ参拝客用に荷物運搬用の小舟が運航していたようで、野崎詣りの噺では屋形船ではなくて、荷物用の小舟だったのかもしれません。ここで舟の上と土手の参拝客との間で喧嘩が繰り広げられていた・・・


 野崎駅の東、すぐそこまで迫っている生駒山の中腹に野崎観音があります。そこまでの参道の両側に商店街があります。


 交差点「野崎」を更に東に小道を進みます。


 坂が始まる処に慈眼寺( じげんじ)の石標がありました。


 此処からは階段です。


 石段がすり減っています。


 石段を登り詰めると・・・鳥居がありました。お寺だと思っていたのですが神社?鳥居をよく見ると牛頭天王(ごずてんのう)を祀っています。隣接する南條神社でした。


 生駒山の山腹で、西は開けて梅田界隈の高層ビルがよく見えます。遥か六甲山系もうっすらと・・・


 改めて慈眼寺( じげんじ)・・・野崎観音の山門から入りました。


更に階段を上ると本堂があります。


本尊は十一面観世音菩薩で、普賢菩薩と文殊菩薩も祀られているそうです。


 天平勝宝年間(749年 - 757年)にインドから来朝した婆羅門僧正が、行基に「野崎は釈迦が初めて仏法を説いた鹿野苑(サルナート)に似ている」と語ったそうで、それを聞いた行基が、白樺で十一面観音を刻んで当地に安置したのが野崎観音の始まりだという伝承があるそうです。(Wikipediaを参考)


瓦には慈眼寺と刻まれていました。


 山門越しの大阪平野・・・


 野崎から放出へ。行きに放出で乗り換えた時に、放出から電車の線が出ていて放出駅が始発のようで、夏以来の「乗り鉄」をしてしまいました。

 おおさか東線・・・こんな線があるのか?と思っていたら、どうも貨物線だった線路を複線・電化したようです。帰ってから調べると数年前の開業でした。

 行先は久宝寺・・・昔、会社務めしていた時に、久宝寺に工場があって、そこに関係する製品開発を担当していたので、月に一回ぐらい、千葉から新幹線で日帰り出張を月一ぐらいでしていました。その時以来、久し振りの久宝寺です。

 おおさか東線は、ほぼ全線が高架でした。近鉄奈良線、近鉄大阪線、そして両端が学研都市線(片町線)と大和路線(関西本線)と、幾つもの線路を結ぶ役割もあるようです。


 そして終点の久宝寺。

 私が月一ぐらいで利用していた頃は、上りホームと下りホームとの間に貨物の操車場があり、かなり離れていました。操車場はなくなって、その跡地にはショッピングセンターと高層ビルが建っていました。

 何年か住んでいた埼玉の新三郷駅も上りホームと下りホームとの間に貨物の操車場があり、かなり離れていました。数年前に久し振りに訪れると、操車場はなくなって、そこに大型のショッピングモールが出来ていました。そんなことを久宝寺の駅のホームに立って思い出しました。


 新幹線で新大阪に降り立って、天王寺駅から奈良方面の電車に乗って、ホームを下りて、工場があった南側に向かうために操車場の下をつなぐ地下道を出ると、そこのうどん屋さんがあったのですが、周囲が再開発されて新しい街になっている中で、ポツンとこのビルだけが取り残されているようです。確か、このシャッターが閉まった処がうどん屋さんだったような・・・1度か2度、此処で食べた記憶があります。


 貨物の操車場だった処は、このように再開発されて都心のような感じです。


 記憶を頼りに工場の入り口に向かいましたが、再開発と合わせて、工場の入り口も変わってしまったようです。此処が正門だったと思うのですが、どうも再開発された大きな道路に面した処に正門は移ったようです。


 正門を探して、しばらく歩きましたが・・・其処には何の思い出もないですし、構内に入れるわけもなく、途中で引き返しました。


 大和路線快速に乗って新今宮駅です。環状で通過することはあっても、新今宮のホームに降り立ったのは初めてです。


 南海沿線の人が梅田に出るには、終点の難波から御堂筋線と言う経路もありますが、新今宮だと天王寺にも梅田にも行けるので便利かもしれません。梅田(大阪駅)に向かう外回りのホームは混雑していました。


 内回りに入ってきた環状線の電車は、ラッピングされた電車でした。


 天神祭り、繁盛亭・・・四季を問わない観光用のラッピングです。


 玉造駅で下車、この駅を利用するのは初めてです。


 真田丸の城跡に向かうのですが、あてずっぽに近道を探して路地に入ろうとしたら、そこはたまたま「幸村ロード」でした。


 この路地に面した店が企画したようで、六文銭の旗も・・・


 真田十勇士のキャラクタの看板が彼方此方に・・・


 企画のブースがありました。


 誰もいないので、よくわかりませんが、どうも真田丸の復元ジオラマのようです。


 真田丸をターゲットにした土産物を売っている店もありました。


 幸村ロードを過ぎて、三光神社です。


 境内には六文銭が描かれた真田丸の赤い旗が・・・


三光神社の本殿です。



 そしてお目当ての真田幸村像と、その横に真田の抜け穴の入り口。・・・でもたくさんの観光客の行列で写真が撮れません。


 じっと待って、空いた瞬間撮った写真です。


 入り口は鉄格子がありました。


 格子の隙間にカメラのレンズを入れて、高感度で撮りました。

 この曲がった先はどうなっているのか?興味があります。


「真田の抜け穴跡」の入り口にある真田幸村の銅像です。


 神戸・東遊園地での「阪神淡路大震災1.17のつどい」の後にJR東西線経由で野崎詣りの野崎観音に行って、放出駅からおおさか東線に乗って久宝寺駅、以前勤めていた会社の工場を訪ねて・・・大和路線で新今宮駅、環状線に乗り換えて玉造駅で降りて真田丸城址へ。帰りは大阪駅から快速電車で垂水駅まで・・・

 朝4時半過ぎに自宅を出て、戻ったのは12時半頃、約8時間・・・

 おおさか東線の「乗り鉄」も経験しました。