石の宝殿


生石神社_高砂、2016年1月4日


 高砂市の宝殿山・山腹に、生石神社(おうしこじんじゃ)があります。

 主祭神はオオナムジ(大穴牟遅神)とスクナビコ(少毘古那命)です。オオナムジは大国主(おおくにぬし)であり、スクナビコはカミムスビの子です。

 生石神社はご神体が巨大な石造物「石の宝殿」であることが有名ですが、まだ訪れたことがなかったので、4月並に暖かい陽射しの中で生石神社に向かいました。

 第二神明道路から加古川バイパスで高砂北ランプで降りて、県道393号を南下すると神社の駐車場に出ました。


一昨年に国の史跡に指定されて、真新しい石碑がありました。


 坂道を少し上がって拝殿とその奥に本殿です。空は抜けるような青空です。


 ご神体の石の宝殿の前の本殿、真ん中に通路があります。


 この本殿下の通路の向こうにご神体の「石の宝殿」が鎮座しています。


 通路を抜けると・・・ご神体の石が見えました。


 石の宝殿は、幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンだそうです。間近から見上げるので、巨大に見えます。超広角レンズのの広角端(換算16mm)でも入りきらないです。


 石の宝殿は、凝灰岩の竜山石で出来た岩山の中腹を削って作られており、三方を加工前の岩盤に囲まれ、前方が本殿になります。斜め隅から撮っても石の宝殿の全貌は入り切りません。


 縦構図で、なんとか全貌を入れました。

 石の宝殿の下部は窪んで、池になっています。


 この池は旱魃になっても枯れず、水位は海の潮位と連動すると言い伝えられているそうです。

 わずかにつながった底部中央の支柱状の部分が巨石自体の死角になり、巨石が池の上空に浮かんでいるように見えるために、石の宝殿は「浮石」と呼ばれているそうです。

 カメラで下がら仰ぎ見上げるような構図で写真を撮りました。写真右端が本殿になります。


 石の宝殿の裏側です。昔のブラウン管テレビの裏側のような感じです。



裏側から正面の本殿を望んだ構図です。

 此処からも、ローアングルで写真を撮りました。


 普通の視線から見ると、池に石が浮かんでいるように見えます。


 ぐる〜とご神体の「石の宝殿」の周りを一周しました。


 境内には霊石がありました。


 山上公園登り口、岩山を削った石段が続いています。


 写真の右手に「石の宝殿」があります。この岩山をくり抜いて「石の宝殿」が作られたことになります。


 「石の宝殿」を三方が岩壁で囲まれたようになっており、その上から見た「石の宝殿」です。上部には、加工当時にはなかったとみられる多くの雑木が生えています。


 上から見下ろしたご神体・「石の宝殿」です。宝殿山の山腹で、眼下には高砂の街を望むことができます。


「大正天皇行幸の跡」の石碑が建っていました。

 「石の宝殿」は聖徳太子の時代に物部守屋が造ったものという言い伝えがあります。そして現在の「石の宝殿」は未完成・・・本来は横に倒して神殿とするつもりだったのではないか・・・とも言われています。

 生石神社略記によると

「二神相謀り国土を鎮めるに相應しい石の宮殿を造営せんとして一夜の内に工事を進めらるるも、工事半ばなる時阿賀の神一行の反乱を受け、そのため二神は山を下り数多神々を集め(当時の神詰現在の米田町神爪)この賊神を鎮圧して平常に還ったのであるが、夜明けとなり此の宮殿を正面に起こすことが出来なかったのである」と書いてあるそうです。

 「石の宝殿」の裏側の突起(ブラウン管テレビの裏側)は、本来は上部となる構造だったようです。


 大正天皇が、そのような歴史的な経緯に興味を持って行幸されたのかは、わかりません。


 宝殿山の周囲には、岩山があり、頂上から眺めることが出来ます。


 眼下には高砂の街が一望できます。


 隣の岩山では、石の採掘をしています。


 宝殿山の山頂の景色を十分眺めて、石の階段を下りました。


 帰路、稲美町に立ち寄りました。冬の麦畑を撮影に・・・

 冬の陽射しを受けて、麦畑が一面に輝いていました。


 もう、こんなに成長しています。


 稲美町の町中にはこのような麦畑が点在します。寒さが緩んで、3月下旬並みの気温、正月休みというよりも、これから春を迎える春休みのような雰囲気です。


 枯れ果てた田んぼのヒコバエ(?)の間には、この数日の寒さの緩みが続いた為か、小さな草が芽吹いていました。冬が終わって、これから春・・・という景色と錯覚してしまいます。