2015年


この1年間の近況



2015年の1年間を振り返って・・・


 元旦の朝、明石の西の端・南二見の人工島の東岸壁に向かいました。ちょうど明石海峡の海上に初日の出の出が昇るので,絶好のポイントです。到着したのが日の出の時刻の20分ほど前でした。

 日の出の時刻を過ぎても,東の空の端に居座っている雲の輪郭がオレンジ色で赤く輝く程度でしたが、しばらくすると,雲の切れ間からスポットライトのように曙光のオレンジ色の光の帯が現れました。


 明石海峡の辺りの海面をスポットライトが照らしているような感じです。初日の出の曙光です。

 明石海峡を照り耀かせている曙光は,明石海峡大橋の主塔を浮かび上がらせていました。なんとなく幻想的な光景・・・珍しい初日の出のシーンです。


正月休みに播磨路をドライブしました。

京都・亀岡と姫路を結ぶ国道372号線,古代から中世までは,大阪(淀川の河口周辺)が湿地帯だったので,京から西国には,この国道372号線沿いにあった街道がメインの幹線だったようです。源平の合戦で義経は京から加東市の三草経由で神戸の鵯に向かい,一の谷の合戦に至ったようです。

 国道175号線から国道372号線に入って,ちょっと山間に入ると雪景色でした。田んぼの蘖(ひこばえ)の光景です。


阪神淡路大震災から20年,今朝は神戸・三宮での「阪神淡路大震災1.17のつどい」の会場で5時46分の震災が起きた時刻を迎えて,黙祷を捧げました。


 新潟・長岡での学生時代を終えて、千葉・柏、東京・池袋、そして埼玉・川口と首都圏で約10年転職を繰り返して地元・神戸に戻って、その年明けすぐに阪神淡路大震災。 


 本務校が遺体安置所・避難所となって・・・20年前の記憶が走馬灯のように頭の中を巡りながら、竹灯ろうに灯されたロウソクの灯りを見つめていました。


戦国時代に「花隈城」に替わって「兵庫城」が兵庫近隣を治める武将の城だった時期があったそうで,兵庫の町は港町であり,山陽道(西国街道)の宿場町であると同時に,城下町だった時期もあったようです。その後,陣屋となり,勤番所となり,幕末には兵庫鎮台,兵庫裁判所を経て,兵庫県庁となった経緯があります。

 神戸中央市場の移転に伴って,旧・中央市場の開発工事に伴う兵庫城址の遺跡発掘調査の現場を1月31日の1日だけ見学できるというので,見学しました。


二の丸辺りから内堀越しに本丸(西側)を望んだ眺めです。


遺跡の発掘現場を訪れるのは初めてです。発掘作業を興味深く見学しました。


 今年度博士課程3年生の博士論文公聴会に参加しました。神戸ハーバーランドキャンパスは現職教員が現職を続けながら修士課程や教職大学院に通えるように夜間コースの授業をこのキャンパスで開講しています。私も4年間、授業を受けたり研究指導を受けたりした場所です。


学位論文のタイトルは「技術科教育におけるものづくり活動時の生徒の感情状況の分析に基づく情意的支援の在り方の検討」です。


プレゼンテーションが終わって,質疑の時間です。まず審査委員以外の参加者からの質問です。質問に対して,身振り手振りで,丁寧に説明をしていました。


SSH(スーパー・サイエンス・ハイスクール)に指定されている神戸高校総合理学科の課題研究発表会に参加しました。

本務校から徒歩圏内の20分あまりですが,六甲山系の摩耶山の麓で,10分以上きつい上り坂を上ります。授業を終えてすぐに出掛けたのですが,到着した時には汗ばんでしまいました。


講堂が会場です。講堂の前半分がオーラルセッションのプログラムが進行して,受付後は,講堂の後ろ半分でポスターセッションの発表があり,個別に説明や質疑のやりとりが出来ます。

 研究テーマごとの各班からの口頭発表が舞台で続きます。


休憩時間は,生徒にとってはポスターセッションでの発表が待ち受けて休憩できません。 丁寧に説明してくれ、質問に対しても一生懸命に答えてくれました。


 明治中期からの旧制中学の伝統を持つ伝統校で,校舎にも雰囲気があります。


 舞子海岸の海を望む処に「旧・武藤山治邸」が移設されています。徒歩圏内で,舞子公園を訪れる時には,この周囲をよく通るのですが,中に入ったことがありませんでした。2011年には国の有形文化財として登録された建物です。

 自宅の近くですが、まだ訪れたことがありませんでした。冬の好日に訪れました。


ホールから1階の食堂と2階に通じる階段・・・ゆったりとしたスペースです。


 広間の北隣の応接室,実際には来客の待合室のような使い方をしていたようです。


 京都・伏見の,伏見稲荷大社に久し振りに出掛けました。

 伏見稲荷は,全国に約3万社あるといわれる稲荷神社の総本社です。元々は京都一帯の豪族・秦氏の氏神だったそうです。

 主祭神はウカノミタマ(宇迦之御魂神)[日本書紀ではウカノミタマノミコト倉稲魂命)]で,古くから女神と言われています。古事記では,スサノオがクシナダヒメの次に娶ったカムオオイチヒメとの間に生まれています。名前の「ウカ」は穀物・食物の意味があるそうで、穀物の神様です。

 千本鳥居,此処は特に鳥居が密集している処です。右側通行です。


びっしりと隙間なく鳥居がずっと続いています。


見晴らしの良い四ツ辻までは来たことがあるのですが、今日はその先頂上まで進みました。山の中を鳥居が続きます。


山頂まで一周して下り・・・

お昼が近づいて,四ツ辻から,来た道を戻ろうと下って行くと,凄い人の群れが上ってきて大混雑です。上る方々は渋滞状態です。


2月27日に、竹の台小学校での開授業研究会に参加しました。

5年生国語「わらぐつの中の神様」に参加しました。授業が終わって研究協議となり,まず会場校の教師が,それぞれが感じたことを発言するスタイルでした.


 学習院大の佐藤学先生の講演、 講演を聞いたメモ・・・箇条書きです。


・「子どもを見る」ことが大切.子どもの個人名が出ない授業の研究協議は「教え」の方法や解釈ばかりになっている

・「読み」に関して,何も考えていない教師は,子どもが文章から内容をイメージせず,何も考えずにスラスラ速く読めることを「速くスラスラ読めて良かったね.」と言ってしまっている.

・子どもたち,ひとりひとりの学びを保証することが大切



 3月7日に、第9回 感覚をつないでひらく芸術教育を考える会 研究発表会が,兵庫教育大学 神戸ハーバーランドキャンパスの兵教ホールで開催されました。

今回の研究発表会のワークショップは『身体表現とコミュニケーション』と題して,マイム俳優の いいむらなおき氏によるパントマイムです。

最初に「パントマイム」と「マイム」の違いを糸口にして,いわゆるパントマイムについて,手振り身振りを交えながら愉くお話をされました。

 「マイム」とは,黙劇・無言劇等,「ことば」のない演劇のことで,「パントマイム」は「マイム」というジャンヌの中のひとつのことで,言葉(台詞)を身振り手振りに置き換えて演じるスタイルのことだそうです。


いわゆるパントマムに関して由来を糸口にいろいろなマイムに関する楽しい話をされた後に,ワークショップとして参加者と共に身振りの実演です。


研究発表の後に、兵庫教育大学大学院の授業「総合芸術表現演習」を受講した学生による作品・パフォーマンスがありました。これは≪梅月夜≫です。


3月26日から03月30日までの5日間、朝から夕方までの缶詰状態の教員免許更新講習を受講しました。

 星槎大学は神奈川・箱根に本部を置く通信制の大学で,10年程前に設立された新しい大学です。北海道から福岡まで常設のスクーリング会場を持ち,教員免許更新講習は,交通の便が良い処にある大きな会場を借りて開催しているようです。今回参加した教員免許更新講習は,心斎橋のレンタルスペースで開催され,選択領域の18時間(3日間)と必修領域の12時間(2日間)とも約200人の受講者でした。年度末のこの時期に教員免許更新講習を開催している大学が稀なので,関西周辺だけではなくて,私がお話しした範囲だけでも,北は宮城県から西は山口県まで泊まり込みで受講しておられる方々も少なくないようです。


アイスブレークとして「一分間即興芝居」,十数人ずつのグループ分けだけをして,「台本なし」,「打ち合わせなし」,「指示なし」で,タイトルを示されるとすぐに1分間の即興芝居を演じるというものです.

 次々に1分間ずつの即興芝居ですので,十数分で200人の受講者全体が一通り演じることになります.会場の真ん中辺りから後ろ半分を撮影した様子です.写真左手を舞台と見立てて,次々に移動して即興芝居を演じます.


選択領域の3日目は,各自が考案した指導案のプレゼンテーション.

幾つかのプレゼンテーションがあり、その中のひとつは幼稚園児を対象とした「ふれあい」は,入園直後に園児と保護者とのゲームを取り入れた活動です


 教員免許更新講習の会場が心斎橋だったので、昼休みに心斎橋のアーケードを歩いていると、あちこちに「爆買い」のグループを見掛けました。


6月8日から2泊3日の人間ドックでした。これまで1日の人間ドックの経験はありますが病院で泊まり込みの人間ドックは初めてです。

 一般の病棟とは別に健康診断のフロワーに人間ドック専用の病室があります。特別料金を払えば個室もOKだそうです。


このスケジュール表を持って、3日間、いろいろな検査を受けました。オプションで歯科衛生・口の中のクリーニングもしてもらいました。


 病院の食事、朝は検査があるので、食べる時間がかなり遅くなりました。


 7月15日〜16日と、東京出張でした。

東京学芸大学附属国際中等教育学校での研究授業の研究授業です。今年度からスーパーグローバルハイスクール指定校となって、テーマは"「多文化共生社会の実現を支える組織力・対話力・実行力の育成」"です。

 今回の研究授業はそれとは別で、国際バカロレア中等教育プログラムに関する公開授業です。テーマは「技術・家庭科技術分野における「技術」と「情報」をつなぐ設計教育の試み」−Tech未来エネルギー変換教材を用いたプログラミング学習の実践−

 主に鉄道関係について、生徒たちがグループで調査したり、モノづくりをしたりした成果の発表です。



 生徒は私服、かなりラフな感じですが、ダラダラした雰囲気はなく、しっかりと研究発表をして、それに対してしっかりと生徒が質問をしていました。


最後に、文部科学省初等中等教育局の上野調査官からの講評、しっかりと研究発表の要点を捉えて、的確で良いアドバイスをしていました。都道府県や市町村の指導主事がする講評とは、かなりレベルが違います。


 東京へ出たついでに、秋葉原に立ち寄りました。神戸ではなかなか手に入らない部品の入手と、秋葉原の動向のチェック


 、研究授業が終わった後、ホテルに帰る途中で新宿に立ち寄って・・・紀伊国屋書店の一階にあるタバコ・喫煙具の店です。喫煙者だった頃、ここによく立ち寄っていました。パイプの煙が好きだったので、此処でパイプを買ったり、タバコの葉っぱを買ったり・・・

 20年以上前に、よく利用して頃と、ほぼ同じ佇まいです。何となく時間を超えたようなノスタルジーな気分に・・・


 新宿3丁目の寄席・末広亭・・・ここもよく通いました。途中からでしたが、久し振りに寄席情緒を楽しみました。



7月25日、7月26日の一泊二日の日程で、親戚一同で倉敷を訪れました。倉敷は何度か訪れたことがありますが、日帰り圏内なので、泊りは初めてです。

 美観地区は絵になる光景で、何枚も写真を撮りました。


 宿泊は倉敷アイビースクウェア、江戸幕府の代官所跡に建設された倉敷紡績創業の工場跡地です。


 美観地区を散策して、久し振りに大原美術館を巡って、ゆったりとした夏の午後


 倉敷は代官所があったことからもわかるように天領だった地で、ちょうど倉敷天領夏祭りで、街の大通りは屋台がたくさん出て賑やかでした。


 8月9日〜10日はQC管理の研修があり、東京出張です。

 QC管理に関して、今までちゃんと向かいあったことがなかったのですが、朝から夕方まで丸二日の研修で、基礎から中級の手前までQCに関してしっかりと研究を受けました。


出張の前後を利用して、4泊5日で、ついでに東京の街の中を巡りました。池袋で3年間働き、更に学生時代には五反田で半年間企業研修を受けていましたが、あまり足の向かなかった処も多かったです。

 宿泊したホテルは池袋で、予約後に地図で確認すると以前の勤務校の隣でした。この建物で3年間、授業や実習をしていました。

 芝の増上寺、明治6年に「大教院」が置かれ、大教宣布(国民に対して尊皇愛国思想の教化)として神仏共同教導職養成機関の本部となって、増上寺の大教院神殿が置かれたそうです。

明治7年の元旦には排仏主義者により放火され、明治8年には神仏合同布教禁止の令が発せられ、その後大教院は解散・閉鎖となった経緯があるようです。

 当時の増上寺の境内の大部分が、現在は芝公園となっています。


江戸城址・・・明治以降、皇居となった、と思っていたのですが、皇居は、江戸城の西の丸跡で、本丸や二ノ丸等の江戸城の中心部分だった処は皇居東御苑として残っていることを知りませんでした。

 結構、観光客は多かったです。特に海外からの観光客が目に付きました。
江戸城本丸跡です



 アメ横です。中近東のケバブの店がたくさんあって結構繁盛しているのには驚きました。日曜の午後、真夏ですが、凄い人出でした。


 上野駅・・・常磐線沿線の柏に住んでいたこともあり、また学生時代は、新潟・長岡から上野行きの急行や特急を利用していましたので、「鉄道の駅」として最も印象深いです。


 夜の上野駅・・・柏や三郷に住んでいた頃、上野発の最終の下りが0時半頃で、時間を気にして上野に向かったことが多かったです。

 学生時代は、夜11時頃に上野駅を出て長岡に朝5時の到着する夜行の急行を何度か利用しました。


広尾の有栖川宮記念公園・・・「宮さん♪宮さん♪」のトコトンヤレ節の宮さんは熾仁親王のことです。有栖川宮の別邸が自宅近くの神戸・舞子にあり、今現在は舞子ビラというホテルになっています。一度有栖川宮邸のあった広尾の公園を訪れたいと思っていました。


 カトリック関口教会にある、東京大司教区の司教座聖堂、聖マリア大聖堂です。丹下健三の建築で、訪れるのは2度目です。

 以前、此処で催されたパンフルートの演奏会に来たことがあります。演奏者はゲオルゲ・ザンフィルだったような気がします。司会が宮崎美子だったことは覚えています。


 遠藤周作の作品が好きで、長崎を訪れた時には小説の舞台となった血を訪れていましたが、まだ東京の切支丹屋敷跡に行ったことがありませんでした。

 小日向の住宅地の中に切支丹跡の石碑がありました。この辺りに切支丹坂という名前の坂があります。


 今回の東京行きでは、いろいろな坂を巡りました。その中で小石川植物園の北にある「逸見坂」・・・読みは「へんみざか」です。この坂の上に逸見を名乗る武士の邸宅があったそうです。


 学士入学して、5〜6年、毎年??夏のスクーリング授業を受けていた慶應義塾大学を久し振りに訪れました。ちょうど日吉でスクーリングをしている時期で、キャンパスは閑散としていました。夜間スクーリングも受講したことがあり、5時に池袋の職場を出て、途中で夕食をとって三田まで・・・今から考えればきつかったです。

 食堂の山食は夏休み、生協も夏休み、キャンパスを散策しただけで終わりました。


 葛飾・柴又の、帝釈天の参道に並ぶ団子屋さん、寅さんのロケで使われていた「とらや」です。昨年と今年はBS放送で寅さんシリーズを2回観ました。つい、柴又に足が向いて・・・


 浅草の浅草寺、海外からの観光客の一番人気、平日の朝でしたが、朝から凄い人出でした。神谷バーに立ち寄りたかったのですが、オープン前で準備中でした。


 富士そば、残念ながら関西には無いようです。海外からの観光客に大人気だそうで、店の前にはアジア系らしき観光客がメニューを見て相談していました。


 銀座のソニービル、ソニーの全盛期にはエレクトロニクスの最新の背品が並んで、銀座に出た時にはよく立ち寄っていましたが、久し振りにソニービルに入りました。

 外国からの観光客が多かったです。情報発信の拠点という雰囲気では、もうなかったです。


 銀座の教文館、ここの3階はキリスト教関係の書籍、4階は教会関係の用品等があります、

 NHK朝の連続テレビ小説『花子とアン』主人公のモデルだった村岡花子は、かって教文館で編集者として働いいたことがあり、.3階のフロアー(写真の中央付近)に「村岡花子のデスクがあった場所」という表示がありました。


 今回、漱石の所縁の地を幾つか巡りました、雑司ヶ谷の漱石の墓は訪れたことがあるので、それ以外の場所・・・

 漱石が生まれたのは幕末の江戸、牛込馬場下横町になり、現在は新宿区喜久井町となっています。生誕の地には「夏目坂通り」という名称の道があります。


 そして漱石の生誕の地


 その近くに漱石終焉の地があります。此方は「漱石山房通り」と名付けられています。


「漱石公園」です。漱石が晩年を過ごした「漱石山房」があったところです。公園の入り口には漱石の胸像がありました。


 「吾輩が猫である」を執筆した時に住んでいたと言われる借家があった場所です。団子坂の近くです。塀の上に猫の銅像が・・・



 そして小説「三四郎」に描かれている池、東大・本郷キャンパスにあります。元前田家の邸宅にあった「育徳園心字池」で、正式名称は今でも「育徳園心字池」ですが、漱石の小説「三四郎」以来、三四郎池が通りが良いようです。


 8月15日、今年一度っきりの淡路島のサイクリングです。毎年、春から夏にかけて、何度か淡路を走るのですが、今年は出掛けることが多くて、一度っきりでした。

 明石と淡路・岩屋を結んで明石海峡を13分で横断する連絡船・ジェノバラインが新造船を就航させたので、それに乗るのも目的です。

 「まりん・あわじ」・・・総トン数が118トンで旅客定員が180名、それに自転車20台とバイク8台(125cc以下)を搭乗させることができます。フェリーがなくなって、明石海峡大橋を渡れない小型バイクで淡路へ行くことが数年間できなかったのですが、この新造船で、その問題も解消しました。

 サイクリングのグループと一緒になりました。


 淡路の東海岸、国道28号線沿いにヤシの木が並んでいます。神戸では見られない景色、遠くに来たような感じがします。


 海沿いの国道を走って・・・脚力がないので、この辺りで引き返しました。


 8月22日〜23日は、愛媛大学で日本産業技術教育学会の全国大会がありました。愛媛大学の前身は四国で最初に出来た旧制高校です。


 午前中の発表でしたので、朝一番から会場で口頭発表を聞いていました。


 松山向かう途中、金比羅山に立ち寄りました。今まで2度金比羅山に来ていますが、頂上まで行ったことがありません。今回、3度目にして初めて頂上まで行きました。


 漱石の小説「坊ちゃん」に出てくるターナー島です。海に浮かぶ小岩、其処に松の木が茂っています。


 ホテルのチェックインして、市電の「道後温泉行き」に乗って道後温泉へ・・・


 「坊ちゃん」の中で坊ちゃんは、余分にお金を出して、上等の湯船、そして個室で浴衣を借りていましたが、私も余分にお金を出して浴衣を借りて「霊の湯」に入って、湯上り後にはお茶と団子を味わいました。


 子規記念博物館、ちょうど河東碧梧桐展だったので入場しました。芦屋にある高浜虚子の記念館があり行ったことがありますが、子規のことはあまり知らず、前回松山を訪れた時は入りませんでした。


 愚陀仏庵が再現されていました。ここは撮影可です。愚陀仏庵は、一階が子規、2階に漱石が済んで、52日間共に住んでいたそうです。漱石が英語教師として松山中学校に赴任した際、下宿していた上野家の離れだった処です。


 そして愚陀仏庵があった場所です。今は駐車場になっています。三越の裏手になります。


 ちょうど俳句甲子園の全国大会が、松山の繁華街・大街道で行われていました。兵庫県代表の神戸の灘高校と、愛媛県代表の松山の松山東高校の対戦です。


 ずっと行きたかった処、愛媛県から尖ったように九州の向かって伸びている「佐田岬」その先端まで行きたいと思っていました。前回、松山を訪れた時には途中で断念しましたが、今回は先端の灯台まで行きました。

 佐田岬は、九州とのフェリー乗り場がある三崎までは国道で走りやすいのですが、それから先は県道で、隘路のようです。確かに三崎から西・・・佐田岬灯台までは隘路となって離合(りごう)が困難な個所が多かったです。

一度、大きな車と離合困難な個所で鉢合わせ・・・。相手の車が後退してくれました。


 灯台にある「四国最西端」の碑です。向こうに見える山影は大分県の大分市辺りのようです。


 松山からの帰りは、しまなみ海道を通りました。前回は半日で、あまりいろいろ立ち寄れませんでしたが、今回は朝イチにホテルをチェックアウトして早朝にしまなみ海道へ。

 最初の島・大島で高速を降りて亀老山に向かいました。標高300mですが、来島海峡大橋を一望できます。


 次は大三島(おおみしま)で高速を降りました。そして島の西側の宮浦港の近くある大山祇(おおやまづみ)神社に向かいました。

 大山祇神社は、古代・中世から秀吉の全国統一まで道後の湯築城の城主で、伊予の有力者だった河野氏の守り神、そして村上水軍の守り神でもあり、伊予国一の宮ということを湯築城資料館で説明を受けて立ち寄ることにしました。

 大山祇神社に来て、初めてわかったのですが、大山祇は、古事記のオオヤマツミのことだということがわかって・・・大山祇神社を訪れて良かったと改めて感じました。

 オオヤマツミは、神産み(かみうみ)において伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)との間に生まれた神様です。またオオヤマツミは、コノハナノサクヤヒメとイワナガヒメをニニギに差し出した話は、古事記の中でお気に入りのストーリです。ニニギは、容姿の醜いイワナガヒメをオオヤマツミに送り返したのですが、これをオオヤマツミは怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたから」とニニギに告げたそうです。

 ニニギとコノハナノサクヤヒメの間に生まれたのが、ホデリ(海幸彦)とホオリ(山幸彦)です。もう一人の兄弟であるホスセリも生まれますが、古事記にはホスセリに関して出生の記述しかでてきません。

コノハナノサクヤヒメとイワナガヒメを祀っているのが、島根県の松江市の北側にある佐太神社の摂社・田中神社です。佐太神社の本殿に向かって西社でコノハナサクヤヒメノミコトを祀り、東社はイワナガヒメノミコトを祀っており、2年前に訪れています。その父親にあたるオオヤマツミを祀る大山祇神社です。



 その次は因島、高速を降りて白滝山へ向かいました。山上の駐車場に車を停めて、そこから石段と坂道を歩いて・・・白滝山の山頂に到着した時には汗だくになってしまいました。

 白滝山の山頂の五百羅漢は、因島の柏原伝六が江戸・文政年間に興した 「一観教」という新興宗教の名残だそうです。柏原伝六は尾道の石工などに石像作りを依頼し、3年余りの歳月をかけて五百羅漢が完成したそうです。


 白滝山を後にして、村上水軍城に向かいました。「水軍城」というネーミングで、海岸沿いにあって、船が直接接岸できるような構造のお城を勝手にイメージしていましたので、ちょっと迷ってしまいました。海岸沿いではなくて山側にあり、山腹にそびえていました。

 村上水軍のルーツは、源氏の庶流・信濃村上氏という説があり、また、村上天皇の皇子・具平親王の子であった源師房を祖とする村上源氏を起源とする説もあるそうです。

 村上水軍の活躍は、南北朝時代に寺社領の海上警護を請け負っていた記録がもっとも古いそうです。南北朝時代には、因島や弓削島などを中心に、瀬戸内海の制海権を握っていたようで、海上に関を設けて通行料を徴収したり、水先案内人の派遣や海上警護請負などを行っていたようです。



 8月の最後の週末、8月29日と30日は、兵庫県立大学での教職課程「職業指導」の集中講義があります。

 1日4時限で、2日間で8時限、朝9時から夕方4時10分まで、休憩時間を挟みながら、合計12時間連続の授業となります。授業の進捗状況に応じて内容等の「さじ加減」を考える余裕がないので、結構、即興力が必要です。準備万端整えて・・・とはいかないまま授業の初日を迎えました。


 今年度は大講義室での授業です。今年は、県立大の学生の履修登録者の実際の履修はなくて、科目履修生の方々ばかりでした。学部4年生を対象にした教材と授業展開を準備していたので、社会人ばかりの履修生の顔ぶれを見て、授業展開の修正が必要かなあ〜と思いながら、あれこれ模索しながら授業を始めました。


11月18日、上野中学校での研究授業に参加しました。昨年と今年の2年間、「学び合い支え合う 授業づくり・学校づくり」に関する研究開発ということで研究開発事業推進校になっています。

 研究授業は1年生の数学、「多角形の内角の和」がテーマです。授業は講堂の広いスペースに一クラス分の机と椅子を持ち込んで授業が見やすいように配慮されています。附属学校では、このスタイルの研究授業の経験がありますが、一般の公立中学校では初めてです。

 指導助言は埼玉大学の北田佳子先生です。経歴から東大で佐藤学先生に師事していたようで、授業展開も「学びの共同体」のスタイルを踏破していました。



 ゆったりした机配置でしたので、見て回るのには動きやすかったです。

 講評では、かなり細かい授業観察をもとにして北田先生のアドバイスがありました。しっかりと授業の進行と、各班の動き、ひとりひとりの生徒の表情を見取っていおり、観察力・鑑識眼が凄いと感じました。


11月20日は兵庫中学校北分校・・・夜間中学校の公開授業です。初めての試みだそうで、じっくりと2時間の授業を参観できました。

 この夜間中学校の看板は、山田洋二監督の映画「学校」にも登場したように感じます。そして寅さんで伊藤蘭が編入を希望した夜間高校にも、このような看板があったような気がします。


 少人数、外国籍の方が多く、年齢もさまざま、生徒の熱心さと共に、教師の熱心さにも驚きました。学びと教えが共鳴している感じでした。

 教育って・・・教育の原点を改めて考えさせられる貴重な体験となりました。


 12月6日は京都教育大学での、日本産業技術教育学会の近畿支部大会があり、口頭発表をしました。

 京都教育大は初めて訪れます。自然が豊かで、野鳥の啼き声がキャンパスに響き渡っていました。Wkipediaには「隣接する藤森神社から連なる緑に覆われた大学で、見聞鳥41種と多くの種類の野鳥が棲息し、樹木の種類も多い。全国の国立大学の中で緑被率は2番目に高い。」とあります。確かに自然に恵まれたキャンパスです。


 近畿支部大会では学部生の発表が多かったです。今までマスターコースの1年生の発表には多く接してきましたが、学部の4年生が何人も発表する学会は初めてです。その中での発表でした。

 センスの遷移に関しての発表でしたが、ある大学の教員の方より、センスの遷移ということはセンスは影響を受けて変わるのかどうか・・・という点について質問を受けました。後になって質問意図に沿ったコメントが出来てなかったと反省。そして、その質問より、研究のヒントをいただいたように思います。


ルミナリエ・・・今年て20年。最初の1回目は感動が大きかっですが、だんだん魅力を感じなくなって、数年は行くことがなかったのですが、また違った意味でルミナリエの魅力を感じて行くようになりました。


 カメラだったのが携帯に変わって、今はスマホが多くなりました。私も最初はフィルムカメラでしたが、今はデジカメです。

 ルミナリエの光源も白熱電球からLEDへと変化しています。


 東遊園地、光の渦の下に、たくさんの人が・・・

 20年前、1月の震災から年末の震災復興を旗印にルミナリエ・・・


 12月に入って、今年は鳥取砂丘に行っていないことに気付いて、急遽鳥取に向かいました。

 冬の朝の鳥取砂丘は、人影もまばらでした。


 鳥取から日本海沿岸沿いに円山川までドライブすることにしました。まだ余部に行ったことがなかったので、海岸線の県道を走って余部へ。古い鉄橋は現在は使われていませんが、一部は残されて「空の駅」となっていました。

 余部の町の上の鉄橋を列車が走る様子を、昔の余部の方々はどのように見上げていたのかなあ〜と・・・


 余部駅は、戦後、地元の人の手作りで出来た駅だそうです。余部の町から旧な坂を上って駅に到着します。それまでの交通手段は舟だったそうです。


 余部から更に東に海岸沿いの県道を走って竹野・・・学生時代、此処でキャンプをしたことがあります。竹野駅と、途中の川を渡る橋の景色には見覚えがありますが、この砂浜に立っても、昔ここでキャンプをしたのか・・・ちょっと記憶が辿れません。この砂浜ではなかったかも・・・


12月18日、福田中学校の教育研究発表会に参加しました。福田中学は「神戸学びのモデルプラン」に関する研究開発で、、研究開発事業推進校になっています。

 研究授業は1年生の社会で、地理の分野でアメリカがテーマでした。



 会場は視聴覚室、本来は縦に長く使う教室を、横向きにして見学者が横から授業風景を見やすいように配置していました。

 指導助言は、学習院大の佐藤学先生です。今、神戸市立の学校では、中学校が5つ、小学校が2つ、学びの共同体にもとづく教育研究を行っているようです。佐藤学先生の指導助言を聞くのも、2月に続いて今年2度目です。


 2学期も終わって・・・職場の先輩と食事をご一緒しました。八かく庵という豆富(豆腐)をベースにした料理が楽しめます。お酒は、ビール、日本酒、最後は焼酎と味わいました。


 冬休みに入って、駅前の商店街に買い物にいくついでの地元の垂水漁港を久し振りに訪れました。冬の優しい陽射しが海面を照り輝かせて、眩しいくらいでした。


 年末は道路が渋滞するので、朝早く行動。ちょっと早目に家を出て、近郊の田んぼ・・・さすがに朝一番は霜が降りて、そこにまだ赤味が残った朝の陽光があたると、ちょっと幻想的な光景になります。


 田んぼのあぜ道、ほぼ真横からの朝の陽光が霜で白くなった畦道の草を金色に輝かせていました。

 寝そべるように写真を撮っていると、指が悴んでしまって、車に戻ってヒータでぬくもりを浴びて・・・