北野天満宮と廣峰神社
天神様と祇園さん & 姫路城と明石城、2015年2月20日 & 2月21日
天神様や祇園さんの神社が各地にありますが,菅原道真を「天神様」として畏怖・祈願の対象とする天満宮の総本宮は太宰府と京都・北野の天満宮と言われています。また,スサノオと牛頭天王とのの薬師如来の垂迹という神仏習合の祇園信仰は,姫路の廣峰神社と京都の八坂神社が総本宮と言われています。 京都・祇園の八坂神社はたびたび訪れますし,一昨年には太宰府天満宮を訪れましたが,北野天満宮と廣峰神社を訪れたことがありませんでした。2月20日と2月21日に,それぞれ京都・北野の天神様と姫路・広峰の祇園さんを訪れました。 * まずは北野の天神さん・・・ 阪急で嵐山に向かいました。此処は頭端式ホームとなっているターミナル駅です。 |
遠く,嵯峨野の北にある愛宕山辺りは雪で白くなっています。神戸大阪は晴れていましたが,嵐山・嵯峨野辺りは時折小雨が混じる冷たい風が吹き抜けていました。 |
渡月橋です。 |
嵐電の嵐山駅です。此処も京福電鉄嵐山線のターミナル駅で頭端式ホームです。 |
一両の路面電車の車内風景です。 |
帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅から北野線に乗り換えです。ここは単線で,住宅地の中を走り抜けます。 |
終点の北野白梅町駅,此処も頭端式ホームとなっているターミナル駅です。 |
紙屋川沿いの風景,北野橋から撮影しました。 |
北野天満宮,今出川通りに面して大きな鳥居があります。 今出川通りを東に進むと御所の今出川御門を経て賀茂川と高野川が合流する出町柳・・・下賀茂神社の南を通って,百万遍・京大のキャンパスを通って,白川疎水沿いに銀閣前の参道に連なり,東の端には京都・東山の銀閣寺となります。 そのような今出川通りに面して鳥居がそびえています。 |
大鳥居をくぐって・・・平日にもかかわらず,境内は結構参拝客が多かったです。 |
使い古した筆を埋めて供養する筆塚です。 |
楼門の前には屋台が出ていました。 |
文道の大祖風月の本主の額が掲げてある楼門です。 |
菅公御歌・・・ 東風吹かば 匂ひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな |
道真の出生年は丑年の承和十二年(845)六月二十五日、すなわち乙丑年に生まれ、そして丑月、丑日、丑刻に誕生したそうです。また大宰府への左遷時、牛が道真を泣いて見送ったという伝説もあり,菅原道真と牛との関係は深いようで,牛は神使(祭神の使者)とされ,臥牛の像が境内の彼方此方で見掛けました。 |
天神宮の中には境内社も多かったです。 |
三光門(中門)です。重要文化財に指定されています。 |
北野天満宮ではなくて,天満宮と書かれています。 |
天満宮の社殿です。慶長12年に造営され国宝に指定されています。北野辺りについてから小雨が続いていましたが,境内に入ってから,時折雨が続きます。社殿の前は長い行列が出来ていました。 |
末社で社殿の北東に位置する文子(あやこ)天満宮です。天慶5年(942年)に右京七条二坊に住む巫女多治比文子に菅公の神霊より,「わが魂を右近馬場(現在の天満宮の敷地)に祀れ」とのお告げがあり,これが北野天満宮の発祥と言われています。 その後,他の霊能者にも同じ神託が相次ぎ,天暦元年(947年)に天満宮が現地に移されたそうです。 文子の住居跡には神殿がつくられ文子天満宮と称せられたそうですが,明治6年に天満宮境内の此処に遷座されたそうです。 |
学問の神様として合格祈祷の受付にはたくさんの人が・・・ |
絵馬掛所です。 |
ズラーッと絵馬を掛ける棚が並んでいます。 |
絵馬の数が半端じゃないです。 |
どこまでも絵馬を掛ける棚が並び,何重にも絵馬が掛けられています。 |
夥しい数の絵馬・・・ |
人の願いが,学問の神様として崇められた菅公・天神様へと向けられ,絵馬として,その願いが境内に重なっています。 |
このような絵馬が重層になっているのを見たことがなく,絵馬掛所の中を彷徨いました。 |
絵馬掛所の奥の方にも,絵馬が幾重にも幾重にも重なって掛かっています。 |
高校受験,大学受験,就職試験・・・さまざまの合格祈願・・・ |
天満宮には梅が多かったです。ちょうど開花の頃です。 |
天満宮の前には,凄い行列が出来ていました。「とようけ茶屋」という豆腐料理の店で,行列が絶えない店だそうです。 |
帰路,北野白梅から嵐電で帷子ノ辻駅で乗り換えて,嵐山線を四条大宮に向かいました。路面を走る区間が何箇所かあります。駅・・・というよりもストップ・停留所という感じの道路上のホームです。 |
終点の四条大宮駅,此処も頭端式ホームとなっているターミナル駅です。 |
帰路は河原町から阪急京都線で梅田経由で高速神戸駅まで・・・ この日は阪急1dayチケットを買って,頭端式ホームのある 阪急 梅田駅 阪急 嵐山駅 嵐電 嵐山駅 嵐電 北野白梅駅 嵐電 四条大宮駅 頭端式ホーム・ファンとして五カ所を巡ることが出来ました。 * 2月21日には,姫路・広峰山を目指しました。 山陽電車の三宮・姫路1dayチケットを買って,垂水から姫路駅まで。 姫路駅はターミナルで,頭端式ホームとなっています。 |
バスで,第3特科隊が駐在する自衛隊の姫路駐屯地近くの「白国南」バス停で降りて,坂道を歩くと,登山口の前の道路に「従是廣峰山 十八丁」に道標が3つも並んでいました。 |
山路を分け入って・・・ |
落ち葉がそのままです。雨の後だと濡れ落ち葉で滑って登りにくいだろうなあ〜と思いながら,冬の乾燥した落ち葉を音を立てながら踏みしめて山路を上りました。 |
結構,竹林が多かったです。 |
途中で汗だくになってセーターを脱いだのですが,それでも汗が止まりませんでした。 展望台附近です。 |
そして廣峰神社の鳥居です。右側の小高くなった処に神社があります。 |
参道には提灯が連なっています。 |
廣峰神社には,「広峰三十四坊」といわれるように社家(御師屋敷)が三十四家があったようで,境内には屋敷跡が残っています。 |
社家は播磨、但馬、淡路、摂津、丹波、丹後、若狭、備前、備中、備後、美作、因幡 、伯耆において、村単位で信徒(檀那)を持っていたそうで,社家は自家の檀那村をまわって三種類の神札(居宅内の神棚に祀るもの、苗代に立てるもの、田の水口に立てるもの)を配布して、その対価として御初穂料を得て収入としていたようです。 明治に入って神職の世襲が廃止され、社家の多くはその地位を失って下山して,屋敷跡だけが残っているようです。 |
表門です。 |
全国にある牛頭天王(ごずてんのう)の総本宮・廣峰神社の拝殿です。日本で一番大きな拝殿だそうです。 |
霊木といわれる「息吹木(いぶき)」です。 円融天王の御世の天禄三年(972年)に社殿を白幣山(現在の荒神社,吉備神社)より現在地に映す時に,多くの木が茂っていたのを,社殿建築に障りがないように東隅のこの木を残したそうです。 |
蘇民将来を祀る社です。 スサノオは蘇民将来の門戸に茅輪(ちのわ)をつくらせて疫神を禁圧したそうです。 |
境内から姫路の市街地の眺めです。正面の杜が姫路城です。 |
荒神社,吉備神社がある白幣山へ向かいました。 ここにも社家の屋敷跡と思われるものが残っていました。 |
しばらく山路を歩いて・・・この上が白幣山です。 |
荒神社,元々ここに廣峰神社があったようです。祭神はスサノオです。 |
隣には吉備神社,天平5年(733年)に唐から帰った吉備真備が,都へ戻る途中に広峰で神威を感じ、それを聖武天皇に報告したそうです。翌年の天平6年(734年)に白幣山に創建されたのが廣峰神社です。 廣峰神社の創建者である吉備真備は陰陽師であったようで,荒神社の隣には吉備真備を祀る吉備神社があります。 |
帰路,本殿・拝殿から外れて竹林を進みました。 |
此処に黒田孝高(黒田官兵衛)の屋敷跡があります。 |
此処・・・だそうです。何もなく,屋敷跡だけでした。 |
薬師堂です。明治になって神仏分離令が出るまでは,祭神は牛頭天王であり、本殿内に薬師如来を本地仏として祀っていたそうです。現在は,此処・本殿の北西に薬師堂を立てて,江戸期まで祭っていたとされる薬師如来がこの中に安置されているようです。 |
本殿の後に「九つの穴」があります。 |
一白水星から九紫火星までの九星の神々が宿る穴・・・だそうです。 |
帰路,山路を下りながら,途中にあるホテルの屋上で写真撮影をしているのが目に入りました。背景は・・・姫路の市街地となります。 |
バスに乗って・・・途中の大手前公園のバス停で降りて,新しくなった姫路城を見ました。 |
此処でお城の写真を撮ったり,記念写真を撮ったり・・・人が群がっています。 |
大手前公園は,明日の姫路城マラソンの準備,前日祭で賑やかでした。 |
各ブースには長い行列が出来ていました。 |
特設ステージです。 |
駅まで,みゆき通りを歩きました。 |
明石で途中下車しました。最近,明石城をじっくり巡ったことがないので,久し振りに明石城に・・・ 入口には,中部幾次郎(なかべ いくじろう)の銅像があります。明石の林崎漁港で林兼商店を創立して,明治37年には明石から下関に移り,漁業のほか、水産物加工、海運、造船などの経営に進出し、一大企業グループを作り上げ,戦後には勅選貴族院議員となっています。林兼商店は大洋漁業となり,現在のマルハニチロの前身です。 |
明石公園冬の味覚市で賑やかでした。 |
元々現在の林崎の北にあった船上城が明石のお城で,キリシタン大名の高山右近が築城して,当時は林崎の港に,堺を訪ねる南蛮船も寄港していた国際港だったようです。 江戸期の初期は,明石は姫路の城主の領地でしたが,その後,徳川家康の曾孫で明石、三木、加古、加東の四郡10万石を領した小笠原忠真が将軍家と姫路藩本多家の強い支援をうけて築いた城です。 * 坤櫓(ひつじさるやぐら)です。坤(ひつじさる)は南西で,本丸から南西の方向にある櫓です。 |
別の方向からの坤櫓です。 |
この辺りに本丸があったようです。天守は築かれなかったようです。 |
帯郭越しに眺めた明石の街・・・ |
この辺りに二の丸があり,その向こうに東の丸があったようです。 |
巽櫓です。 |
明石城の庭園が「武蔵の庭園」として整備されていました。自然な感じの池です。 |
街の真ん中にあるとは思えない静かな空間です。 |
明石城の東隣に明石市立文化博物館があるのですが,未だ入館したことがありませんでした。足を伸ばしました・・・ |
古代から明石原人,明石ゾウも含めて明石の歴史がわかる展示となっています。 2階では市内の各幼稚園の作品展がありました。 |
こちらを見に来て,ついでに展示も見る家族が多かったようです。 |
受験生だった頃,此処の図書館に通っていました。その後,明石公園に来ることがなく,受験時代から久し振りに図書館に,朝から,お昼を明石の街で済ませて,午後も此処で勉強していた記憶があります。 |
通学で使っていた山陽電車の舞子公園駅,此処で乗り降りするのは久し振りです。 |
そして最寄駅の霞ヶ丘駅です。現在はJRで通勤しているので普段は垂水駅を利用していますので,この駅を利用するのは数年に1度ぐらいです。 |