兵庫城遺跡


兵庫津遺跡調査現場見学、2015年1月31日


 「兵庫県」という県名の由来は,最初に兵庫県が誕生した時に県庁が置かれた町の名前に由来します。

 兵庫・・・元々古代の摂津国にあった港は,「敏馬の浦」(現在の岩屋,敏馬神社の辺り)でしたが,奈良時代に行基が「大輪田泊」を築き,その後,平清盛が経が島という築島を築いて日宋貿易の拠点としました。

 更には大輪田泊を取り込む「和田京」の造営を計画したようですが,これが後の「福原京」として実現したようです。

 鎌倉時代には兵庫津は国内第一の港となり,室町時代には足利義満による日明貿易の拠点となり、遣明船の発着港として,また朝鮮王国や琉球王国の船も来航して国際貿易港として賑わったようです。

 *

 奈良や京の都から瀬戸内海を通って西国,四国,九州とを結ぶ航路の港町として,また山陽道(西国街道)の宿場町として栄えた兵庫の町ですが,ここに兵庫城が築かれ,城下町であった時代もあったそうです。

 *

 神戸の中央卸売市場の移転に伴い,旧・中央市場跡地の開発工事に伴う調査で,兵庫城の遺跡が発掘されて,その発掘調査現場が1日だけ見学できることになり,見学に行ってきました。

 場所は,JR兵庫駅の東で,JR神戸駅の南に位置します。地下鉄海岸線の中央市場前の目の前です。

 下の写真の赤い三角の部分が兵庫城遺跡です。そして今回の遺跡調査されたのは,その下の図の濃青の部分・・・外堀と内堀の一部と二の丸,そして本丸の一部です。

 区域が三角形になっているのは,図の右上から左下までの斜めに,新川運河の発掘によって,現在は運河になっています。(薄青の部分)






 最寄駅の海岸線・中央市場前ではなくて,JR兵庫駅から旧・西国街道を歩いて兵庫城遺跡に向かいました。

 「兵庫駅」は,兵庫県の県名が駅名である駅ですが,兵庫県を代表する駅・・・とは言い難いです。東隣の「神戸駅」も,神戸市の市名が駅名である駅ですが,こちらも神戸市を代表する駅・・・とは言い難いです。


 兵庫駅の和田岬線との乗り換え部分は,ひじょうに天井が低くなっています。


 旧・西国街道沿いにあった柳原えびす神社です。兵庫駅の東,300mほどの処に位置します。


 能福寺の兵庫大仏です。 

 能福寺は,最澄によって延暦24年(805年)に能福護国密寺という日本最初の密教教化霊場として創建されたそうです。その後,福原京遷都計画にともなって,平家一門の祈願寺に定められたこともあって,大伽藍が建設されたこともあったようです。

 大仏は,明治24年に豪商・南条荘兵衛の寄進によるもので,戦前は日本三大大仏の一つに数えられていました。昭和19年に金属類回収令で国に供出されて,現在の大仏は平成3年に再建されたものです。


新川という運河です。明治7年の開削されましたが,この水面の下に,かつての兵庫城の本丸があったようです。今回の兵庫城遺跡調査現場は写真左手(東側)となります。そして写真の右手(西側)に兵庫城跡と「最初の県庁所在地」の石碑があります。


 その石碑です。


 橋の上から・・・遺跡発掘現場が見えます。


 「遺跡 現地説明会」の幟が,風ではためいていました。


 兵庫城跡遺跡の現地説明会の入口


 発掘され品々の展示と説明がありました。


航空写真で確認すると,新川運河の東側の三角形状の遺跡調査現場は兵庫城の大手道と外堀,内堀(写真の赤線部)となり,本丸跡の主要部は,新川運河の開削によって失われてしまっています。見学で歩き回れたのは写真の下半分ぐらいで,上半分は現在調査発掘中です。

 写真の下側の赤い帯が外堀,その上に内堀となります。





 上の写真の下側(南)から撮った遺跡の全景です。写真右側の建物が新・中央市場です。


 写真左奥から左手前を経て写真右手前までの「L字型」が外堀となります。そして写真右手前に土橋があって,この手前側が大手前となって,写真右手奥に本丸が位置していたようです。


 外堀の南側の外側になります。ここには町屋が並んでいたのかもしれません。


 外堀の南側(外側)の石垣です。


 こちらは外堀の南側(内側)の石垣です。


南側の外堀の東端,ここから外堀は北に向かいますが,その先には土橋で行き止まりになっています。この土橋の東側(写真右側)に大手道が続きます。その先は・・・海となります。


兵庫城は,戦国時代と言われる天正8年(1580年)に,織田信長軍の武将だった池田恒興によって築城されました。

 織田信長に謀反を起こした荒木村重が「有岡城の戦い」(現・伊丹市)で有岡城が落城して,その後花隈城(現・神戸市)で「花隈城の戦い」となったが,池田恒興によって落城しました。

 その功績によって池田恒興は織田信長から兵庫の地を与えられ,摂津国の太守となりましたが花隈城には入らず,花隈城を毀り、其材石を移して兵庫の町に兵庫城を築いたそうです。


 天正11年(1538年)には,池田恒興は美濃国の大垣城に転封となって,
兵庫と尼崎が三好(豊臣)秀次に与えられます。そして天正13年(1585年)に片桐且元が代官として入城しました。

 片桐且元は,信長の死後に秀吉と対立した柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(近江国伊香郡)で福島正則や加藤清正らと共に活躍し,賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた人物です。

 兵庫城は「片桐陣屋」と呼ばれるようになりました。

 元和元年(1615年)に大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ,元和3年(1617年)には兵庫城址(片桐陣屋))には兵庫津奉行所(陣屋)が置かれることになり,奉行が置かれました。


 明和6年(1769年)には上知令(幕府による土地没収の命令)によって兵庫津を含む兵庫一帯は天領となって,陣屋は「勤番所」となって改築されたそうです。この時に堀が埋め立てられ町屋となったようです。


 幕末の,慶応4年(1868年)1月に,明治政府によって兵庫鎮台が置かれました。2月には兵庫裁判所となって摂津国と播磨国の旗本領を管轄することになりました。

 そして5月には兵庫裁判所が廃止されて,兵庫県が設置されました。兵庫県の県庁が,この兵庫城址(後の陣屋,勤番所)に置かれたので,県名が県庁所在地の町名「兵庫」に由来して「兵庫県」となったわけです。


 明治7年(1874年)には,新川運河の開削によって,本丸の大部分を含む兵庫城址の大半が削られて,現在は新川運河が流れています。

 下図の左側の斜辺が,現在の新川運河となります。今回の見学コースは,大手道から南側の外堀(図の下)を巡って,土橋から二の丸(帯郭)辺りから内堀ごしに本丸おw眺めるようなコースです。北側(図の上)は,現在発掘作業中です。






 発掘現場は,南側の外堀を廻って,東側の土橋を渡って,そして二の丸辺りかです。北側(写真の奥)は現在発掘調査の作業が続いています。


 二の丸辺りから内堀越しに本丸(西側)を望んだ眺めです。


 この北側〜外堀と内堀の間の北側=では発掘作業が続いています。


 遺跡の発掘現場を訪れるのは初めてです。発掘作業を興味深く見学しました。
















 この辺りは,外堀の外側となって,町屋が続いていたと思われる処です。




兵庫城の東側に東西に続く大手道だった処です。


 新川運河の北側には小舟がたくさん停泊してる処があります。


 兵庫城の帰路は,湊口惣門(現在の七宮神社の辺り)を経て,旧・湊川をさかのぼって・・・新開地商店街へ向かいました。


 神戸高速鉄道の新開地駅と神戸駅との間は,メトロ神戸という地下街・地下道が続いています。新開地辺りは・・・地下道です。


 卓球場や古本屋・・・昔からの佇まいです。


神戸駅に近づくと,地下街となります。


 神戸駅の西口には,巨大なバスターミナルがあります。この円形ドーム状の周囲にバスストップが並んでいます。


 神戸駅の構内です。この奥の店舗の中に,かつての「貴賓室」が今も残っているそうです。


 神戸駅は,東海道本線の終点で,山陽本線の起点となっています。


 神戸駅と言っても,神戸の面玄関は実質的に「三宮駅」や新幹線の「新神戸駅」です。