兵庫の町 & 新旧の湊川


大和田の泊,兵庫津を巡り,新旧の湊川を探索、2014年01月18,19日


 1月18日は,車の定期点検のためにディーラーに車を預けて点検してもらう間に,兵庫の町を散策することにしました。

 10時半過ぎに車を預けて,兵庫駅に向かうと,その道沿いに森彌食品工業・・・神戸の地ソース・ブラザーソースの製造元がありました。直売もしているようですが,事務所は閉まっていました。


 兵庫駅です。神戸駅と兵庫駅は,外観も中も古い佇まいを残しており,つい写真をとってしまいます。

 兵庫駅の場所は,昔は「二本松」と呼ばれて兵庫の町の西はずれに位置し,室町幕府が開かれた時には足利尊氏が、大黒天福海寺を現在の兵庫駅の場所に創建したそうです。

 兵庫駅は明治21年に兵庫駅ー明石駅間に山陽鉄道が開通した時に出来た駅で,翌年には梅田ー神戸間の官営鉄道と接続しています。更にその翌年(明治23年)には和田岬線が開通しています。

 明治43年には当時の兵庫電気軌道(現在の山陽電鉄)が兵庫駅ー須磨駅間で開業し,当時の神戸電気鉄道(のちの神戸市電)が兵庫駅前に乗り入れし,また翌年には兵庫駅と新川駅間に兵庫臨港線(貨物線)が開業して,明治後期には大きな鉄道ターミナルの様相を示していたようです。


 構内は天井が高く,広々としています。高架駅の南北を連絡する通路の役割も担っています。


 兵庫駅の東側に,柳原蛭子(ゑびす)神社があります。十日ゑびすの時には,電車の車窓から見下ろすと,ものすごく賑わっているのをいつも見ていましたが,訪れるのは初めてです。


 柳原蛭子神社 の北には,創建当時は現在の兵庫駅にあった大黒天福海寺が移転しています。柳原蛭子神社と大黒天福海寺の間を西国街道が通っていました。

 柳原蛭子神社の西側に西惣門跡の石碑があります。ここから東側が兵庫の町で,その西の玄関口になります。

 西国街道は,西惣門跡から柳原の交差点をJR沿いに現在の兵庫駅を経て,その後,駅北を西北に斜めに走る旧山陽電車の線路沿いに西市民病院の前を通って,その後は大開通りを長田神社の大鳥居まで・・・


 柳原蛭子神社を南に下ると柳原天神社に至ります。

 菅原道真が京の都から太宰府に向かう船旅の途中で,暴風雨に遭って,和田岬に上陸したそうで,太宰府安楽寺から分霊を賜わって創建されたそうです。


 日本三大仏のひとつといわれていた兵庫大仏です。神戸に住んでいながら,初めて訪れます。能福寺の境内になります。西国街道の南側に位置する場所で大仏が建立されたのは明治24年です。

 昭和19年に金属類回収令で供出され,現在の大仏は平成3年に再建されたものです。

 境内には,日本の新聞の父ともいわれている播磨町出身のジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)による寺の由来碑もありました。)


 境内には,鎌倉時代の「平家源氏将兵戦没者五輪供養塔」が出土されて並べられていました。


 兵庫大仏の写真


 その後,入り江橋を渡って,築島交差点(中央市場前)から高松線を北上して築島橋,ここに新川運河の築島水門がそびえ立っています。

 以前,車で通勤していた頃は,国道2号線で須磨・若宮まで行って,その後,南に入って苅藻,を経て高松線経由で七宮の交差点まで行き,その後は待てバイパスを通っていましたので,この辺りは車から眺めていましたが,歩くのは初めてです。


 築島水門の西側の新川運河です。この辺りは船大工町になります。


 入り江橋西詰を新川運河沿いに・・この辺りは新川運河キャナルプロムナードとして整備されています。・


 今日の兵庫散策の大きな目的である兵庫城跡・最初の兵庫県庁跡です。新川運河沿いになります。

 1578年,荒木村重が織田信長に謀反を起こして花隈城で,「花隈城の戦い」となりましたが落城してしまいました。この戦いで功があった織田信長軍の武将・池田恒興は兵庫の地を与えられて,花隈城の石垣を使って兵庫津に城を築いたのが兵庫城だそうです。

 江戸初期には尼崎藩の所領となって,兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれました。1769年(明和6年)の上知令によって兵庫の町は天領となり勤番所になったそうです。

 慶応4年1月に兵庫鎮台(明治新政府直属の陸軍編成)が設置され,2月には兵庫裁判所(毎時新政府が諸藩に属さない直轄地を治めるために設けた地方行政機関で全国に12の裁判所を設置)となって摂津国185村,播磨国209村の幕府領と、摂津国26村および播磨国108村の旗本領を管轄したそうです。

 慶応4年5月に兵庫裁判所を廃止して「兵庫県」が設置されました。初代の県知事は伊藤博文です。その時は大名の所領地はそのままでしたが,旧幕府領を天皇直轄領(天領)として府・県に編成した際に大名の所領は天皇の「藩」として新たに大名領の公称として採用され、藩主の居所の所在地の地名をもって「〜藩」という名前が正式の行政区分名となったそうです。これを「府藩県三治制」というそうです

 諸大名から天皇への領地と領民(戸籍)を返還する「版籍奉還:が明治2年6月で,「廃藩置県」が明治4年7月ですので,最初の兵庫県は,尼崎藩や明石藩などの大名所領地は別となっています。


 新川運河沿いを西に向かって大輪田橋,橋の西詰に琵琶塚があります。平家物語のにも登場する琵琶の名手・平経正が琵琶とともに埋葬されたという伝承の地です。


 琵琶塚に隣接して,清盛塚と呼ばれる石造十三重塔(1286年に建てられた供養塔)と平清盛像があります。


 大輪田橋から撮影した大輪田水門です。


 阿弥陀寺を通って高松線の中之島交差点までの道は県道489号線で,かつて東尻池から中ノ島まで市電の路面電車が走っていた道となります。

 新しくできた中央市場の2階の一角に食堂街があります。


 高松線を北に向かって歩いていると,賀川豊彦生誕地の石碑がありました。キリスト教の伝道者であり,社会運動家であり,生活協同組合(coop)の創始者とも言われ,戦後は国会議員として首相の有力候補でもあったそうです。


 十一の奈良漬けの黒田食品も高松線沿いにあります。


 七宮の交差点です。神戸駅前を南下する国道2号線は,真っ直ぐ進むと,高松線を経て兵庫の町に至ります。現在の国道2号線は,兵庫の町を通らずに,七宮交差点を右に向かいます。その交差点の上を大きな歩道橋が跨いでいます。


 七宮神社です。この脇を車で通ることはあっても,訪れるのは初めてです。


 国道2号線から,松尾稲荷神社までの間に,稲荷市場(食彩小路)があります。かなり以前に訪れた記憶があります。この辺りは西出町,東出町という地名になり,旧湊川の右岸だった処です。


 閑散とした市場,ちょっと驚きました。


 シャッターを閉じた店舗も多かったですが,しっかりと営業しています。


 旧湊川が流れていた,明治34年まで元・川筋だった道路です。旧河口付近一帯は川崎重工の工場で,大きなクレーンが見えます。


 ここから先は,川崎重工の敷地で入ることが出来ません。川崎正蔵が毎時11年に築地南飯田町の官有地を借受けて川崎築地造船所を設立し,明治19年に官営兵庫造船所の払い下げを受けて,その後社川崎造船所を設立しています。初代社長は松方幸次郎です。

 松方幸次郎がヨーロッパで買い集めた絵画や美術品が松方コレクションとして知られ、国立西洋美術館の母胎となっています。


 旧・湊川をさかのぼりました。国道2号線の「湊町1丁目交差点」を超えて,JR神戸線の高架をくぐって,ガスビル(大阪ガス新開地)の横を通ると「BIGMANゲート」が見えてきました。これはチャップリンを表現しているそうです。昭和11年にチャップリンは、日本の映画館街を見物するため、映画のメッカだった新開地本通りを訪れたそうで,その記念のゲートだそうです。新開地大通りの南端となります。


 チャップリンゲートの浜側には,新開地本通りと交差する道路があります。これが旧・西国街道になります。


 湊川が付け替えられる前は,西国街道が湊川を渡る橋が,ビッグマンゲートの浜側(東側)に掛かっていたことと思います。


 ビッグマンゲートをくぐると,新開地の繁華街,新開地本通りです。

 昭和21年11月から70年の歴史を持つ大衆演劇場としては日本一大きな舞台がある新開地劇場です。


 歩いていると,浅草の六区のような雰囲気を感じます。場外馬券場,映画館,パチンコ店,飲食街,安いホテル・・・。

 多聞通りに近い部分は,かなり天井の高いアーケードになっています。


 多聞通りを挟んで,新開地の街並みは,湊川商店街や東山市場まで続きます。このボーリング場のあった処が,かつて「聚楽館」(しゅうらくかん)があった処です。

 聚楽館は大正2年に東京の帝国劇場をモデルにして建てられ,「西の帝劇」と呼ばれていたそうです。年配の方々は今でも「ええとこ、ええとこ聚楽館」というフレーズを口にするほど,大正期から昭和初期には神戸のシンボル・新開地のシンボルだったようです。


 かなり歩き回って疲れたので,新開地から大開まで,この多聞通り(大開通り)の地下を走っている神戸高速鉄道に乗りました。

 ブラザーソースが気になって,結局,スーパで買ってしまいました。今日の兵庫の町と旧湊川探索のおみやげです。



* * *


 1月19日,新長田駅から大正筋商店街と六間道商店街を通って,新湊川沿いを散策することにしました。

 鉄人28号像,完成した頃は,ものすごい人でしたが,朝の時間帯は人影がありませんでした。


 国道2号線の浜側にかつてあった神戸デパートは今は新しい商業施設となっています。


 元・神戸デパートの横に南北に連なる大正筋商店街を南に向かうと,六間道(ろっけんみち)商店街とつながっています。道幅が6間(約10m)あったことが名前の由来だそうです。


 六間道商店街は震災で壊滅的な被害を免れたのか,アーケードも店舗も古い佇まいの感じがします。

 ここは,浜側や東側に工場が連なる地域で,昭和時代の中期頃まではものすごく賑わった商店街だったそうです。


 幾つかのアーケード商店街が連なっています。灘の水道筋商店街や湊川の商店街も,このようにアーケード商店が複数つながって,往時は大変賑わったんだろうなあ〜と思います。


 昨日はブラザーソースの森彌食品工業の横を通りましたが,今日は六間道商店街の中にある,ばらソースのばら食品の前を通りました。日曜日で閉まっていました。長田では,ばらソースを使っているお好み焼き屋さんが多く,神戸というより長田の地ソースです。


 六間道商店街の東の端は,ちょっと寂しい感じがしました。


 そのまま東に歩くと新湊川に架かる庄田橋に至ります。


 新湊川を上流に向かって歩きました。


 長田はゴム工業が盛んで,ケミカルシューズの工場がたくさんあります。新湊川沿いに,「わが国ゴム工業勃興の地」の石碑がありました。

 住友ゴムも神戸で,当時はイギリスのタイヤメーカーだったダンロップの日本工場が出発点です。


 長田神社近くになると,南北に流れていた新湊川は大きく方向を変えて,東西の流れとなります。長田神社の南では,苅藻川の流れと合流します。このすぐ東側には,長田神社商店があります。


 長田神社商店街を経て,長田神社に向かいました。この本屋さんの記憶があるのですが,もう閉店してかなりの年月が経っているような感じです。


 商店街の向こうに長田神社の鳥居が見えます。商店街の入口には,鳥居を模したゲートがありますが,震災を耐えた古い感じがします。


 長田神社です。久し振りに訪れた気がします。


 境内の配置を考えると,長田神社商店街からの入口よりも,こちらの鳥居がある方が,本来の正門なのかもしれません。

 気になってずっと南に歩いていると,石碑が建っていました。住宅地を斜めによぎるように道は続いており,おそらく旧西国街道から長田神社への参詣道は,この道を通っていたのではないかと思います。


 長田神社商店街に戻って,長田神社商店街の通りの下をくぐる新湊川です。橋の名前は「長田橋」でした。



その長田橋の近くに鬼平コロッケの店,美味しそうで,ちょっとそそられました。


 この新湊川は,かなり以前に大雨で氾濫して,長田商店街一帯に甚大な被害を与えたこともありますが,今は深く掘り下げられていました。


 向こうの見える橋は,長田神社商店街の長田橋です。下水道の整備で,普段の川の流れはこの程度のようです。


 新湊川沿いををさかのぼって,東へ向かいました。兵庫高校,古い校舎の記憶しかないのですが,新しい校舎になっていました。


 新湊川トンネルが見えてきました。会下山の下をくぐる新湊川のトンネルです。


 古めかしいレンガ造りですが,今のトンネルは,平成12年に新しくできたものです。


 神港高校の脇を通って,上沢通り,大開通りを渡って・・・旧西国街道の名残の道路に向かいました。兵庫駅北口と西市民病院とを斜めに結ぶ道です。旧西国街道の名残であり,神戸高速鉄道の開通までは山陽電車が此処を通っていました。


 2日間で,兵庫の町,兵庫県のルーツ,大輪田泊と縁が平清盛所縁の名所旧跡,そして旧湊川と新湊川の風景を巡りました。

 神戸に住んでいながら,初めて訪れた処も多かったです。