雑司ヶ谷


雑司ヶ谷霊園、雑司ヶ谷の鬼子母神、2013年3月9日


 東京の市街地にある都立の霊園は…、青山、谷中、駒込の染井、そして雑司ヶ谷にあります。今回訪れたのは夏目漱石のお墓がある雑司ヶ谷霊園です。3年前に訪れた時には、事前に何の確認もせずに雑司ヶ谷霊園の中を彷徨っただけで終わりましたが、今回は事前に霊園マップでリサーチして訪れました。

雑司ヶ谷霊園の最寄り駅は、都電荒川線の雑司ヶ谷になります。山手線の大塚駅で都電に乗り換えました。




  雑司ヶ谷駅です。池袋の南東方向に位置するので、霊園からはサンシャインビル等の池袋の超高層ビルを望むことができます。


 駅を降りると、すぐに雑司ヶ谷の霊園があります。




  夏目漱石の小説「こころ」の中で、主人公の「私」が「先生」に初めて出遭ったのが鎌倉の海水浴場でした。前日に鎌倉を訪れて、江ノ電の車窓や長谷観音の高台から、七里ヶ浜や由比ヶ浜の海岸を眺めましたが、「私」が「先生」に初めて出遭った掛茶屋が何処だったかは「こころ」の記述から探ると…

“宿は鎌倉でも辺鄙な方角にあった。”
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“その時海岸には掛茶屋が二軒あった。私は不図した機会からその一軒の方には行き慣れていた。長谷辺に大きな別荘を構えている人と違って、各自に専有の着換場をめいめい拵えていない此所いらの避暑客には…”

    夏目漱石「こころ」青空文庫より

 これらの記述より、「私」が「先生」に初めて出遭ったの由比ヶ浜だったかもしれません。前日(3月8日)に江ノ電の鎌倉高校前のホームから眺めた海岸付近です。或いは江ノ島の海岸だったのかもしれません。

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 その後、小説「こころ」の中で、「私」が「先生」の自宅を訪ねると不在で、奥さんから雑司ヶ谷にお墓詣りに出掛けたと告げられて、「私」は雑司ヶ谷に向かう場面があります。

 「先生」の友人であったkのお墓が雑司ヶ谷にあり、月命日にはお墓参りをしていたようです。「先生」の自宅が何処の設定なのかはわかりませんが、漱石の当時の自宅・漱石山房は新宿区早稲田南町になりますので、雑司ヶ谷まで1.5キロ程度の距離になります。

 小説「こころ」の中で、「先生」が親友Kの月命日に訪れていた雑司ヶ谷の墓地に、漱石自身も眠っています。



 戒名は文献院古道漱石居士…。



 金田一京助…言語学者、民俗学者です。国語学者で国語辞典の編纂や方言の研究で知られる金田一春彦は、京助の息子になります。黎明期のアイヌ語の研究に路を拓き、言語学の分野だけではなくて、民俗学の分野でも大きな足跡を残しています。



 岩手出身で、石川啄木と親友だったそうです。



 東郷青児…独特の画風と柔らかい線や色調の絵が人気の画家です。私自身は、あまり東郷青児の絵の印象はないのですが、西新宿の旧・安田火災ビル(現・損保ジャパンビル)にある東郷青児美術館に所蔵されているゴッホのひまわりの絵を見に行った記憶が鮮明です。



  霊園内からはサンシャインビル等の池袋のビル群が見えるので、方向を見失わずにすみます。



 島村抱月…坪内逍遥とともに文芸協会を設立。帝劇でのハムレットやイプセンの人形の家等、新劇の黎明期を牽引した立役者でした。抱月は松井須磨子とスキャンダルで文芸協会を離れ、その後はスペイン風邪で急逝し、須磨子は結局後を追って自殺。須磨子は抱月の墓で一緒になることを望んだそうですが、その願いは叶わずに故郷・長野に埋葬されているそうです。



  墓石の傍らにある石に刻まれているのは…

 「在るがままの現実を即して。
  全的存在の意義を髣髴す。
  觀照の世界也」。



  サトウハチロー…「リンゴの唄」の作詞者として有名です。「長崎の鐘」もサトウハチローの作詞です。童謡では「ちいさい秋みつけた」や「うれしいひなまつり」があります。意外だったのはザ・フォーク・クルセダーズの「悲しくてやりきれない」の作詞がサトウハチローだったことです。



 墓石には、

 「ふたりでみると
  すべてのものは
  美しくみえる」



 雑司ヶ谷霊園の中は、雑木林のように木々の緑が豊かな処もあり、結構広い霊園を巡っていると、変化も多いです。



 泉鏡花…金沢出身の小説家で、「滝の白糸」(義血侠血)の原作者です。金沢の泉鏡花記念館にも訪れたことがあり、大好きな作家のひとりです。



 尾崎紅葉の門下生で、異常な潔癖症で、総ルビの独特の文体と、そこに描かれた幻想的な世界は魅せられます。

 竜潭譚や高野聖に描かれている幻想的な世界や、夜行巡査や義血侠血での鏡花らしさ…



 小泉八雲…明治24年に第五高等学校(熊本)の英語教師となり、明治29年から明治36年まで東京帝国大学で英文学講師を務めています。漱石が第五高等学校に赴任したが明治29年で、小泉八雲の後任として第一高等学校と東京帝国大学の講師の兼任を明治36年から務めます。小泉八雲は学生の人気が高かったのに対して、漱石の授業は学生には不評だったようで、漱石赴任後に学生による八雲留任運動が起こったそうです。

 その後漱石は一高で受け持った藤村操に対して、やる気のなさを叱責したようで、その数日後に藤村操は「悠々たる哉天壌、稜々たる哉古今、…」ではじまる遺書・巌頭之感を遺して華厳滝に入水自殺する事件となり、漱石は次第に神経衰弱になっていきます。…漱石の話になってしまいました。


 日本や日本文化を海外に紹介しており、日本人にとっても大きな存在です。



 永井荷風…「ぼく東綺譚」や「断腸亭日乗」の作者です。慶應の「三田文学」の創刊という功績もあります。ゆったりと「断腸亭日乗」を読みながら夏休みを過ごしたいなあ〜と思っているのですが、なかなか実現は困難です。



 雑司ヶ谷から荒川線で隣の駅は鬼子母神前です。



 雑司ヶ谷は、雑司ヶ谷霊園の前に駅があり、住宅の密集地でもなく長閑な感じがしますが、鬼子母神前は町の真っ只中というような雰囲気の中にある駅で、乗り込んでくる乗客が多かったです。



 鬼子母神の参道は欅(ケヤキ)並木がきれいです。



参道の両側に、見上げるような高い欅の木が並んで壮観です。



 蜀山人の狂歌「おそれいりやの鬼子母神」で有名な入谷の鬼子母神とは違って雑司ヶ谷の鬼子母神です。鬼子母神堂は豪華な彫刻が施されています。



 訪れたのは土曜日の午後、快晴の昼下がりの境内は、ゆったりと時間が流れていました。