横浜


伊勢佐木町、馬車道、海岸通り、山下公園、
港が見える丘、外人墓地、元町、山手のドルフィン
2013年3月8日


 横浜は、古くは武蔵国久良岐(くらぎ)郡に属する横浜村であり、東海道の宿場である神奈川宿や神奈川湊(現・横浜市神奈川区神奈川、本神奈川辺り)の対岸となる地域で、現在の関内辺り(横浜市中央区)となります。

 江戸期に入って江戸の町に幕府が置かれ、京や大坂とを結ぶ東海道が重要な街道となり東海道の神奈川宿は発展し、また神奈川湊も江戸湾の内海交通の要衝の一つとして栄えたたようです。現在の横浜線の東神奈川駅や京浜急行の神奈川駅の間辺りで、当時の東海道は、現在の国道15号線にほぼ重なるようです。

 神奈川湊・神奈川宿が栄えたのとは対照的に、対岸の横浜村は幕末までは戸数わずか100戸足らずの砂州上に形成された半農半漁の寒村だったようです。

  神戸とのアナロジーで捉えると、兵庫の泊があり、また西国街道の宿場町であった兵庫の町に対して、当時の旧・湊川を挟んで東側に位置した神戸村は、西国街道に面してはいましたが、宿場はなく、幕末まで寒村だったのと似ています。



 ペリーが来航して、1858年(安政5年)に締結された日米修好通商条約では神奈川を開港するように定められていましたが、幕府は、重要な街道の東海道に直結して、内海航路の要であった神奈川湊の開港を避けて、神奈川湊とは対岸になる横浜村を「神奈川在横浜」と称して開港し、居留地や波止場、税関などを整備して国際港としての体裁を整えて安政6年(1859年)に横浜港は開港しました。

 これも神戸とのアナロジーで捉えると、日米修好通商条約では兵庫を開港するように定められていましたが、西国街道の重要な宿場町で、内海航路の要であった兵庫の泊の開港を避けて、寒村の神戸村に港を整備して開港したのと似ています。



 横浜村は、税関以南が外国人居留地としたのに伴い、税関に関所を設けて外国人居留地側を「関内」と呼び、イギリスやフランス、ドイツやアメリカを中心とした各国の外国商館が建ち並んでいたそうです。

 中国人商館があった付近が、現在の横浜中華街の起源になったようです。そして関所の外側が日本人の居留地が横浜町となります。

  明治11年の郡区町村編制法に基づき、横浜町は横浜区となり久良岐郡から離れます。1889年(明治22年)の市制施行によって、横浜区は横浜市となります。一方、神奈川宿は、郡区町村編制法によって、神奈川町となり、1901年(明治34年)に横浜市に編入されています。

 これも神戸と比較すると…神戸の場合は郡区町村編制法によって、八部郡神戸町(旧神戸村)、兵庫町(旧兵庫宿)そして坂本村が合併して神戸区となり、市制施行によって神戸市となっています。

 横浜と神奈川は、横浜村が単独で横浜区から横浜市となった後に、神奈川が編入したのに対して、神戸と兵庫は、郡区町村編制法の時に(明治11年)神戸区として一緒になったという差異が生じています。

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 横浜駅は、旧・横浜村にはなくてかなり神奈川町に近い処に位置しています。最初に新橋・横浜間に鉄道が開通した当初の横浜駅は、現在の桜木町駅となり、横浜村の近くに位置していたターミナル駅でした。その後東海道線の整備に伴って、現在の神奈川町近くに横浜駅が移転した経緯があります。横浜の観光ガイドブックでは伊勢佐木町・関内、元町・中華街と別に横浜駅周辺というような紹介をしています。<BR><BR>

 神戸駅も、旧・神戸村にはなくて兵庫町に近い処に位置しています。最初に梅田・神戸間に鉄道が開通した当初の神戸駅は、現在の神戸駅よりももっと浜手側(東側)に位置していたターミナル駅でした。これも山陽線の整備に伴って、山手側(西側)に駅機能が移転して現在の場所となり西へと線路がつながっています。北の六甲山系と南の大阪湾に挟まれた東西に細長い神戸の市街地にあって、神戸駅は、特異点で、ホームがほぼ南北になっています。

 旧・神戸村周辺は、神戸の繁華街の三宮で、駅も三宮駅です。神戸市内で「神戸」というと…楠公さん(湊川神社)やハーバーランドといった神戸駅周辺を指し示し、旧・神戸村周辺は、三宮や元町と呼ばれています。



 伊勢佐木町…明治中期頃から繁華街として発展した街で、大正期には東京・浅草や大阪・千日前と並ぶ大繁華街だったそうです。明治創業の店舗も残っていますが、現在では、元町・中華街やみなとみらい、そして横浜駅前に比べて集客力が落ちているそうです。

 久し振りに訪れた伊勢佐木町は、私の記憶に残っていた賑やかな街並みではありませんでした。


  港に向かって馬車道です。



 馬車道にあった標識です。観光地の真っ只中ですので、徒歩圏内の案内のみです。



 下岡蓮杖は、幕末期に自力で写真技術を学び、文久2年(1862年)に横浜で写真館を開業しています。日本での写真の黎明期の写真師・横浜では写真の開祖と呼ばれているようです。



馬車道にそびえる歴史的な建物…、旧・横浜正金銀行の本店です。



 海岸通り近くにある北仲通の旧横浜生糸検査所です。



 海岸通りの日本郵船…現在は歴史博物館となっています。



 神奈川県警の本部庁舎です。海岸通りにそびえ立っています。



 …いろいろ写真を撮っていたので、この建物が何だったかわからなくなりました。



 そしてこの建物は、神奈川県庁の旧庁舎…だったと思います。



 海岸通りからの日本大通りの眺めです。奥が横浜スタジアムになります。



  海岸通りから大桟橋埠頭に向かう道沿いの、ちょっとおしゃれな店…



 山下公園の東の端から、山下埠頭、大黒埠頭方面の眺めです。 



 そして大桟橋埠頭、みなとみらい方面の眺めです。



  氷川丸…係留ロープの上で綺麗に鳥が羽根を休めています。



 横浜タワーと横浜市バスです。今回は横浜タワーに上りませんでした。





 山下公園通りは日本の道100選に選ばれています。ちなみに神戸の町には…残念ながら日本の道100選に選ばている道がありません。



 堀川…今は高速道路が堀川の上を通っています。横浜に居留地があった時代、堀川が居留地の西の端になり、堀川の西に元町がありました。

 堀川に架かる歩道橋はフランス橋です。堀川の西に海岸沿いの小高い丘がフランス山で、此処にフランス領事館がありました。港の見える丘公園は、このフランス山の一角にあります。横浜の旧・居留地からフランス領事館があったフランス山を結ぶ堀川に架かる橋・フランス橋は、現在はアーチ型に弧を描く歩道橋です。



 フランス山にあったフランス領事館は関東大震災で倒壊したそうで、旧・居留地内に再建され、フランス山には領事館跡の遺構が残っています。



 港の見える丘公園…



 港の見える丘公園からの眺めは…左から横浜タワー、大桟橋埠頭、その向こうに旧・神奈川湊の瑞穂埠頭、大黒埠頭、山下埠頭…そして右端は本牧埠頭方面になります。



  港の見える丘公園からの朝の横浜の景色をしばし…



 この公園の名前の由来となった「湊が見える丘」の歌碑がありました。



  外国人墓地です。



 プライベートな空間で、中に入ることができません。外の道路から垣間見える外国人墓地の内側です。



 写真を撮っていると…次々に小学生や中学生、高校生が歩いてきます。外国人墓地の近くには横浜雙葉とフェリス学院があります。登校風景は横浜雙葉の児童・生徒でした。マスクをしてカメラを持っていたので、なんだか不審人物と間違われるのが厭で、早々にその場を立ち去りました。



 堀川に架かる前田橋から撮った中華街の入り口です。堀川の西に元町があります。中華街は元町とは堀川を挟んだ旧・居留地内で、ここは「横浜新田」という海岸線の埋め立て地であり、中華街だけ街の区画が45度ズレています。



 堀川沿いの右岸(西南)の元町です。石川町の駅の手前まで商店街が続いています。



 神戸の元町商店街は、アーケード商店街で、旧・居留地の近くの旧・西国街道になるのですが、横浜の元町商店街は、旧居留地との境である堀川沿いの旧・居留地の外側になります。



  石川町の駅です。私にとってなんとなく懐かしさを感じる駅の光景です。反対側は、ホームの端すぐの処から山手をくぐるトンネルになっています。



 そして今回の「横浜行き」のトリガーとなった「山手のドルフィン」です。

 山手駅よりも根岸駅の方が近く、根岸駅で降りて、坂を上って…



  「晴れた午後には遠く三浦岬も見える」と歌詞にはありますが、晴れていれば本牧埠頭越しに、かすかに浦賀辺りを眺めることができるかもしれませんが、ちょっと歌詞からのイメージと現実とは異なるように思います。ドルフィンの中には入りませんでした。



 根岸駅の自動販売機です。首都圏ではよく見掛けましたが、関西では見たことがありません。完全なタッチパネル式の自動販売機です。



 この後、横須賀線で鎌倉に向かいました。