嵯峨野・あだし野


化野 念仏寺行き、2013年3月3日


冬の寂しい時期に、京都・嵯峨野辺りを散策して、化野(あだしの)念仏寺の「西院の河原」で佇んでいたのですが、昨シーズンは化野に行かず仕舞いでした。いつもは観光客のほとんどいない年末の木枯らしが吹き抜ける頃に出掛けていましたが、今シーズンは立春が過ぎて、啓蟄を目前とした桃の節句の新暦3月3日になってしまいました。

 阪急三宮駅で「阪急阪神1dayパス」を購入しました。阪急と阪神そして神戸高速の3路線が1日フリーパスです。京都の河原町と嵐山、大阪の梅田と難波、宝塚、神戸の三宮と元町、そして神戸電鉄の湊川や山陽電車の西代という広い範囲の乗り降りが可能なのですが、いつも京都への往復だけです。阪急梅田駅、大規模な終点・ターミナル駅で典型的な櫛形ホームです。私の大好きな頭端式ホームの光景はいつも写真を撮っていますが、今日も撮ってしまいました。


阪急梅田駅は、乗車ホームと降車ホームとが分離しており、合理的で機能的です。


京都線の特急で桂駅まで行って、嵐山線に乗り換えて嵐山駅へ。ここも終着駅で頭端式ホームです。


嵐山駅から渡月橋方面に歩くと、桂川の中洲である嵯峨中ノ島へ渡る小さな太鼓橋である「中ノ島橋」があります。この橋から眺めた光景が好きで、夏の青々とした雰囲気も良いですが、冬場の眺めも、また落ち着いて…見惚れてしまいます。


中ノ島橋を渡って中ノ島に入ると観光地に来たという雰囲気がします。茶店の豚まんに行列ができていました。


渡月橋の辺りで大堰川(おおいがわ)が桂川と名前を変えるのですが、ここからの桂川、渡月橋越しの愛宕山の眺めです。


渡月橋の袂では観光用の人力車が客待ちをしていました。


渡月橋、この橋の向こう(北側)が嵐山、嵯峨野、その向こうに化野(あだしの)…


渡月橋の上流の西高瀬川との分岐部に、水力発電の設備がありことに気がつきました。もう5〜6年前からあったようです。サイフォン式プロペラ水車を用いた落差1.74[m]で最大水量が0.55[立法m]、最大出力が5.5[kw]の小型水力発電機です。渡月橋のLED照明に使われているそうです。


渡月橋の上流の大堰川の左岸には、高級な料亭が並んでいます。お昼前の時間帯でしたので予約のお客様のお出迎えかもしれません。


吉兆の嵐山本店です。ここが吉兆というのは小さな「表札」で確認できるだけで、看板も宣伝もありません。


夏のシーズンには賑わう処ですが、嵯峨野亀ノ尾辺りは大堰川の川面に冬の柔らかい陽射しがキラキラ輝いて、静かでした。


梅の花が彼方此方に…風は冷たく、どんよりした曇り空で、時折小雪が舞い下りてきます。


この向こうが大河内山荘です。戦前戦後の時代劇の大スター・大河内傳次郎が建てた別荘です。


大河内山荘の周辺は、竹林が続いています。


奥深い竹の林は、冬場も青々として、ちょっと異次元の世界に迷い込んだような感じがします。


この下を保津峡の景色を楽しむ嵯峨野観光線のトロッコ嵐山駅となります。


 日本で唯一の髪の神社・日本最初の髪結いとされる藤原采女亮政之を祀っている御髪(みかみ)神社を超えると、静かな嵯峨野の光景が広がっています。


道路標識にも侘び寂びを感じます。


一般の住居のようですが、観光客が間違えて入って行きました。別荘かもしれませんが、風情のあるお住まいです。


落柿舎(らくししゃ)です。 松尾芭蕉の弟子の向井去来の別荘だった草庵だそうです。落柿舎の前に広がる畑越しの光景が絵になります。


あだし野と呼ばれる処に近づくと、道幅も狭くなります。道の両側は一般の住宅に混じって観光用の店も点在していますが、「売り物件」がありました。中で商談をしている模様でした。


さがの「人形の家」、まだ入ったことがありません。


更に道を進むと、いよいよ道幅が狭くなり、坂道となって…


「嵯峨野」というよりも、この辺りは「あだし野」と言った方がしっくりする光景です。


そして あだしの念仏寺への石段です。


今から1200年ほど前に弘法大師(空海)が、野ざらしになっていた遺骸を埋葬するために五智山如来寺を開いたのが始まりだそうです。


「 あだしの」とは古語で「悲しみ/はかない」という意味だそうで、もともとは風葬地だったようです。


虫塚もありました。毎年9月になると、虫塚の前に祭壇がつくられて、虫たちの供養の御経をあげるそうです。


写真左が仏舎利塔、そして写真右がインド風の鳥居「トラナ」です。インドサンチー僧院主管 沙門 H・パンナティサの言葉が石碑に刻まれていました。

ぶっぽうがせかいにひるまるようにしゃくそんのお言葉

  しゃくそんのせいなるいこつと ぶつでしのいこつをインドのせいち、サンチーよりほうじて、こんにち このとうにほうあんした。
1969年4月9日


これはこの世のことならず
死出の山路の裾野なる
賽の河原の物語

一重つんでは父のため
二重つんでは母のため
三重つんでは兄弟と我がために

賽の河原地蔵和讃( 平安末のご詠歌/空也上人)



西行は

誰とても とまるべきかは あだし野の
    草の葉ごとに すがる白露



寺伝によれば、「弘仁(こうにん)年間(810〜824)に空海上人がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山(おぐらやま)寄りを金剛界(こんごうかい)、曼荼羅山( まんだらやま)寄りを胎蔵界(たいぞうかい)と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来(ごちにょらい)の石仏を立て、一宇を建立して五智山如来寺と称したのが始まり」だそうです。

これが賽の河原を模した「西院の河原」の原型だったのかもしれません。鎌倉時代の初期に法然 (ほうねん)上人の常念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになったそうです。


 平安時代に飢饉や疫病で亡くなった人たちが、この風葬の地・あだし野で野ざらしになっていたのを、空海が供養しようと、千体の石仏を埋めたそうです。このひとつひとつが葬られた人々のお墓です。長い歳月を経て、次第に散乱し埋没していったようです。


明治中期に地元の人々の協力で、釈尊宝塔説法を聴く人々になぞらえて配列安祀したのが、今の「西院の河原」だそうです。今は約8000体の石仏があるそうです。


化野念仏寺の北側には竹林が広がっています。


そこに一本、竹林の中を小径が通っています。


 竹林の向こうには、六面六体地蔵があります。6つの世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人道・天道)で人々を救う姿を顕した地蔵です。


来た道を戻りました。来る時には気がつかなかった古い石の道しるべ


落柿舎から嵐山の市街地方面に向かう道の途中で目にした道路標識です。


いつも気になる長屋風の古い建物


その端っこの家が「日本で一番ちっちゃな美術館」です。


嵐電の嵐山駅です。ここも終点・ターミナル駅で櫛形ホームです。


始発の嵐山駅では、車内で立っている人は僅かでした。


 途中でどんどん乗り込んできて、結構車内は混雑してきました。


 太秦(うずまさ)の広隆寺(太秦寺)です。秦(はた)氏の氏寺です。秦氏の秦河勝(はたのかわかつ)は、聖徳太子のブレーンとして活躍し、平安京の造成や伊勢神宮の創建などに関わったとも言われています。聖徳太子より賜った弥勒菩薩半跏思惟像を安置するために、この広隆寺を建てたとも言われています。秦河勝の墓は、赤穂の坂越の沖・生島にあります。


大阪には堺とを結ぶ阪堺電車があり、京都には嵐山と四条大宮とを結ぶ嵐電がありますが、神戸には残念ながら市電(路面電車)が走っていません。


終点の四条大宮駅です。この駅もターミナル駅で櫛形ホームです。


四条大宮から河原町まで阪急で行って、向かいのホームの特急で梅田に向かいました。途中の淀川を渡る橋の上からの車窓の眺めです。梅田の高層ビルが行く手に見えます。

   
そして終点の梅田駅、一番後ろの車両に乗ったので、櫛形ホームの反対側からの光景です。


活動量計によれば、この日の歩数は17374歩で距離は11.1[km]、消費カロリーが2437[kcal]、活動カロリーが809[kcal]、燃焼脂肪が49.5[g]でした。