堺の町並み
with 阪堺電車と新世界


2013年1月12日


堺の町並みを初めて訪れました。

前から乗りたかった阪堺電車と久し振りの新世界…
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  「堺」という地名は、河内、摂津、和泉の国境の地であったことが名前となったという説があるそうで、南海電車堺駅とJR阪和線堺東駅とのあいだの「大小路」が、明治時代に大和川に国境が変更されるまでの摂津国と和泉国との国境の道だったそうです。

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 飛鳥時代には、難波津を通る南北の難波大道と、飛鳥を通る東西の丹比道の街道が交わる地となって、街道沿いに河内鋳物師が住み、東大寺の大仏の鋳造を手掛けていたそうです。

 室町時代には、兵庫津(神戸)に代わって堺の港が日明貿易(勘合貿易)の拠点となり、更には琉球貿易、南蛮貿易の拠点として「東洋のベニス」と呼ばれていたそうです。

 戦国時代には、戦乱から町を守るために、会合衆と呼ばれる商人による自治都市を形成しましたが、信長や秀吉の支配下に下ることになります。

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 行きは、なんばから南海電車…南海電車に乗るのは、6年前の和歌山行き以来です。
 



 南海電車のなんば駅は、南海線と高野線のターミナル駅で櫛形ホーム・頭端式ホームです。


 行き止まりのホームを目にすると、つい写真を撮ってしまいます。





 大和川を渡って堺駅、何度か通過したことがありますが、このホームに降り立つのは初めでです。



 堺駅の浜側に、与謝野晶子の銅像があります。堺の老舗の和菓子屋「駿河屋」の三女として生まれ、女学校時代に文学に親しみ、卒業後は和歌を詠むようになって、歌人・与謝野鉄幹と結婚して、近代短歌を詠むようになりました。源氏物語の現代語訳も手掛けています。



 堺の街の写真は、前日に買った35mm/f2.0 の単焦点レンズで撮りました。フィルム時代で言えば50mmと同じ標準域の画角になります。



 阪堺電車が紀州街道の路面を走る、道路沿いに北に進むとザビエル公園があります。



 ザビエルが堺を訪問したとき、ザビエルをもてなした日比屋了慶の屋敷跡だそうです。



 聖フランシスコ・ザビエル芳躅(ほうたく)の碑です。碑文には「天文19年12月 聖ザヴィエル堺に上陸し日比屋了慶の館に入った。是(こ)れ西洋文明伝来の始(はじまり)で近世日本文化は茲(ここ)に花と匂った。」と掛かれており、西洋文化がフランシスコ・ザビエルにより堺にもたらされたことを記念した碑です。
 フランシスコ・ザビエル来航400年である昭和24年(1949年)の公園開設時に設置されました。



 堺鐡砲之碑です。種子島から堺に伝来した火縄銃が、この地に於いてわが国の中心的な鉄砲の製造拠点となったことを顕彰する目的で建立されたそうです。



 与謝野晶子の生家・和菓子屋「駿河屋」のあった処です。宿院の交差点の近く・路面電車の走る道路沿いになります。






 千利休の屋敷跡…宿院の交差点の浜側の中浜筋沿いにあります。椿の井戸が残されています。



 紀州街道沿いには阪堺電車が走り、大小路、宿院通りのような大きな通りが交わり、それらの道路以外の道幅もゆったりとして、街全体がゆったりとしているように感じました。



 大小路筋…旧竹内街道で古代の飛鳥の都までつながっています。今は、南海電車南海線の堺駅と南海電車高野線の堺東駅とを結ぶ、市街地の大通りです。そして江戸時代までは、この通りの北が摂津国で、南側が和泉国という国境の道でもありました。



 大通りを入った路地の道幅は広く、古い店構えの店舗も少なくないです。



  阪神高速堺線の堺ランプ、宿院通り(フェニックス通り)につながっています。



  新潟・長岡に住んでいた時には第四銀行がありました。現在のみずほ銀行の前身が第一勧業銀行で、その前身は第一銀行です。第二銀行は現在の横浜銀行の前身なので、ナンバー銀行として残っている中で、もっとも若い番号なのが、この第三銀行なのかもしれません。



 路地の奥にある店の看板がちょっと雰囲気が良くて、レンズを向けました。  



 仁徳天皇陵の前方後円墳の「円」の近くのです。巨大な古墳なので、何処か高い処からでないと全景を眺めることはできません。



 竹内街道…堺の街の大小路から飛鳥に向かう街道で、丹比道(たじひみち)という丹比野を横断する道が元で、日本書紀の推古天皇21年(613年)の条に「難波(大阪)より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」です。此処は、仁徳天皇陵のすぐ北側の住宅地の中に残っている部分です。



 数百メールの間、住宅地の中を…



 南海電車高野線の堺東駅の駅前です。市役所があったり、現在の堺の街の繁華街のようです。



 駅前の西側にはアーケード商店街が張り巡らされており、庶民的な一角も・・・



 市役所の北側の歩道に柳の並木が・・・堺の銀細工職人が江戸に移り住んで銀貨を鋳造した処が、今の東京・銀座であり、職人たちが堺を懐かしんで、堺の街から柳の木を移植したのが「銀座の柳並木」の由来だそうです。



 大小路を海に向かって紀州街道の大通りへ。、路面電車が街中を走る景色です。



  いろいろな種類の電車が走っています。



 堺へは南海電車南海線でしたが、帰りは阪堺電車で恵美須町まで。大小路の停車場で電車を待ちました。



 来たのは…古いタイプの電車です。天王寺行きなんですが、行先表示が、ちょっとずれています。



 堺の市街地は併用軌道(路面電車)ですが、その後は専用軌道となります。



 「あびこ道」で乗り換え、ここには車庫があって、恵美須町行きの始発です。運転手がここで交代したようで、交代の時に、行先表示のズレを直しました。



 天王寺行きが出た後に、車庫から恵美須町行きが…更にレトロ風の電車です。



  乗り換え風景です。



 車内の風景です。住吉神社でたくさん乗り込んできて、途中からは満員になりました。



 後部の運転台です。



 降り際…車内は丸みのある木製で落ち着きのある雰囲気がしました。



 恵美須町駅は、櫛形2線式の頭端ホームです。



 土曜日の昼下がり、折り返し「あびこ道」へ向かった電車が出た後は、駅には誰もいませんでした。



 恵美須町駅は、通天閣がそびえる新世界のすぐ隣です。久し振りに新世界の賑やかな街も散策しました。



 老舗の串カツ屋、店の前は凄い行列です。



  通天閣に久し振りに登ろうかと思ったのですが、入り口は凄い待ち行列です。この前に通天閣を登った時は、閑散としていた記憶があるのですが、今は人気スポットとなっています。
 



 通天閣の南側は…混沌としていました。



 南側からの通天閣は冬の青空に映えます。



 新世界の混沌とした街並みを巡って、再び通天閣の下に戻ると、道路にまで人が溢れて、凄い人出です。



 新世界の北西にある「新世界市場」です。人通りも少なく、シャッタが閉まっている店舗も少なくなです。この中の「生田綿店」は、以前、探偵ナイトスクープで取り上げられていた店だったように思いますが、半分シャッターが閉まっていました。



  日本橋の電気街へ立ち寄ろうかと思いましたが、堺の街と新世界も歩き回って、疲労度も高いので、そのまま、堺筋線の恵美須町駅に向かいました。

 自宅に戻ると、歩数が2万歩を超えていました。寒いかと、かなり厚着をしたので、堺で歩き回っている時に、少し汗ばんだぐらいです。

 巡れなかった処も多く、また暖かくなったらもう一度訪れようと思います。