大中遺跡


兵庫県加古郡播磨町 大中遺跡、県立考古博物館、播磨町郷土資料館

2013年1月27日


  数年前にオープンした兵庫県立考古博物館に、なかなか足が向かなかったのですが、やっと訪れました。

 場所は、JR土山駅の南西方向で、国道250号線と国道2号線との間になります。大中遺跡がある公園に隣接しています。



 大中遺跡…弥生時代中期から古墳時代の遺跡と言われています。1962年に地元の中学生によって発見されたそうで、その後、土器、鉄器、砥石、貝殻や中国との交流を示す分割鏡などが住居跡とともに発掘されて、1974年には「播磨・大中古代の村」という史跡公園としてオープンしています。

 もっとも入口(西側)に近い復元住居です。


 竪穴(たてあな)式住居で、地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建て、梁や垂木をつなぎあわせて家の骨組みを作り、その上から土、葦などの植物で屋根を葺いたいます。



 竪穴式住居には伏屋式と壁立式とがあるそうですが、これは伏屋式です。



 普通の竪穴式住居の深さはせいぜい70〜80センチで、わざわざ「竪穴」と言うほどではありませんが、北海道では穴の深さが2メートル程度の住居もあって、竪穴式というそうです。



 公園の入口から3つ目の住居です。



 竪穴式住居では、床の中央か一方に片寄って炉がある場合が普通であり、古墳時代以降は壁際にカマドを設けるように変遷しているようです。



 排水のため床の周りに溝を巡らしていることも多いそうです。竪穴建物の屋根の軒先は地面付近まで下がることが多かったようで、外からは屋根しか見えなかったようです。ちょうどテントのような感じです。屋根はアシやカヤなどの茎で葺いたことが多かったようです。



  竪穴式住居の穴の形は、時代と地域によって異なっていたようで、縄文時代前期では、概ね方形、台形、楕円形だったようです。弥生時代になると隅が丸い四角い「隅丸方形・長方形住居」が多くなるそうです。



 大中遺跡を訪れた日は、快晴でしたが、竪穴式住居の中に入ると、かなり暗かったです。写真は、すべてフラッシュを光らせてカメラの感度も高くしています。



 モンゴルなどの遊牧をされておられる方々の住居を連想するようなタイプでした。



 公園には、幾つかの復元住居がありましたが、それぞれに特徴がありました。これは住居の出入り口が出っ張っているタイプです。



  薄暗い住居内にしばらく佇んでいると、目が慣れて、隙間から零れてくる光が眩く感じてきました。



  大中遺跡の竪穴式住居は、概ね穴の深さが数十センチ程度と、かなり浅い感じがしました。



  住居を復元せず、竪穴のみです。穴の形が、方形です。


 このように密接して住居が建っていた処もありました。ムラ(村)の始まりでしょうか?





 公園内にある、播磨町郷土資料館の屋外展示として、この地を走っていた別府鉄道の機関車と客車が保存されています。

 別府鉄道は、別府にあった日本で最初の化学肥料工場である多木製肥所(現在の多木化学)の肥料製品を積み出すための鉄道として、1921年に野口線が開業して、大中遺跡の辺りを通っていた土山線は1923年に開業しました。土山線は、当時の国鉄土山駅と別府港・多木化学の工場との間を走っていましたが、1984年に国鉄の貨物営業の縮小に伴い廃線となったそうです。



 機関車の運転席です。計器類は、丸い圧力計や回転計で、現在の電子化やコンピュータ化された計器類はひとつもありません。



 テレビカメラもないので、バックミラーで後方や側面の確認をしていたようです。



 こちらは客車です。ほぼ木製で、丸みを帯びた天井に電灯が2つ、夜間の社内は、かなり暗かったのではないかと思います。



  床面も木製で、スピードもそれほど出なかったことと思いますので、当時の田園地帯をゆっくりと走っていたのではないかと思います。



播磨町郷土資料館です。播磨町は印南野台地から流れる喜瀬川流域を町が占めています。弥生時代から古墳時代までは、ここ大中遺跡がある大中に県内最大の集落があり、奈良時代以降は阿閇(あえ)荘と呼ばれており播磨国加古郡に属していました。

 明治に入って町村制施行後は阿閇村となり、その後、「兵庫県最後の村」として残っていましたが、1962年に旧国名である播磨国から取った「播磨町」と改称して町制施行しました。



  展示は、大中遺跡から出てきた出土品を中心に…



 当時の食事の再現です。海に近いので、海の幸にも恵まれた食事をしていたことと思います。



 公園内の歩道・・・なんだか雰囲気が良くて、レンズを向けました。





 こちらは県立考古博物館です。数年前にオープンしてから気になっていたのですが、やっと訪れることができました。

 展示は、縄文時代から始まっています。



 そして弥生時代の展示です。



 弥生時代後期から古墳時代、ムラが大きくなってクニが形成しはじめて、権力や争いがはじまった時期、これまでなかった武器の出土品が多くなった時代です。



  律令制、中央集権国家が成り立ち、文字が重要になってきた時代です。出土された「木簡」も展示されていました。



 海路による交易や近海から離れた漁業が発達して、船が大型化されて…



 中世には、瀬戸内海の海路は発達して、大陸との貿易も始まり…



 県立考古博物館の上に展望台があり、結構見晴らしが良いです。



 展望台から北西を眺めると、加古川右岸の加古川の街の北部に広がる山々を遠く望むことができます。



  反対の南東方面には、淡路の島影を望むことが出来ます。



 南方面には、人工島・南二見の重工業の工場群が広がっています。



 北東方面は、ずっと平地が広がって、その上空に雲が浮かんでいました。



  冬の好日の昼下がりを、播磨町でゆったりと過ごしました。