2012


2012年の1年間の梗概



2012年の1年間を振り返って…

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1月27日

  一昨年までは、年に数校、小学校、中学校、高等学校の研究授業等に出来るだけ参加していましたが、昨年は、1月に葺合高校の授業を参観したのみでした。



2月29日

 4年に1度・うるう年にしかない2月29日には、神戸市内のある施設の見学会に参加しました。その施設の地下には、建物を支える耐震構造の設備がありました。強力な自家発電設備と冷却設備も見学しました。


 その施設とは、当時世界最高の計算速度を誇った、スーパーコンピュータ「京」がある神戸ポートアイランドにある理化学研究所計算科学研究機構です。見学した時点では864筐体(CPU数88,128個)で、10.51ペタフロップス(毎秒1.051京回の浮動小数点演算)、で計算速度が「京」に達した直後でした。



3月11日

 同期だった方が立ち上げて事務局を担当している「感性をつないでひらく芸術教育を考える会」に参加しました。今回は発表もしました。ワークショップはピアノ調律師の高田努氏による「音を見る」で、大変興味深いものでしした。その後、学生によるパフォーマンス発表もあり愉しいひと時でした。



3月20日

 神戸市内の多井畑厄除神社に隣接する奥須磨公園は、自宅から車で遠くなく、ゆったりできる処です。萌え出る木々の芽が、春の柔らかい陽光を受けて輝いている様子が新鮮に感じました。



4月28日

 5月の連休に入って、神戸の西区にある農業公園では、菜の花畑が満開でした。神戸の市街地を離れて郊外に出ると、春爛漫を実感する時期でした。



7月22日

 梅雨が明けて、本格的な夏。加古川右岸にある見土呂フルーツパークの中にある小高い丘沿いの山路…この景色が好きで毎年のように訪れます。



 夏になると…赤外線写真が撮れるカメラで、木々や草花が発する赤外線の幻想的な絵を撮るのが好きで、この日も園内で赤外線写真を何枚も撮りました。モノクロのネガとも違った独特の表現が醸し出す雰囲気に魅せられます。



7月28日

 京都の東山の散策が好きで、阪急電車の河原町から清水坂辺りを経て、銀閣から百万遍の交差点を通って京阪電車の出町柳まで、半日かけて歩くコースです。この日は朝早く河原町について、まず・・・早朝の先斗町を撮影しました。



 南座の前を通って、祇園の街を通り抜けて、清水辺り…ここは二寧坂です。早朝は海外からのバスの観光客でいっぱいでした。でも、清水坂を通って清水寺へ向かうので、産寧坂や二寧坂辺りは閑散として店も開いていません。



 祇園社、円山公園、知恩院、岡崎公園を通って平安神宮、そして仁王門通りまで戻って南禅寺、鹿ヶ谷通りを禅林寺の前を通って哲学の道です。四季折々の哲学の道の風景が愉しめます。真夏は、緑がまぶしいハイライトなイメージ・・・。

 その後は銀閣参道を経て、今出川通りを百万遍・京大前を通って、賀茂川と高野川が合流して加茂の流れとなる下賀茂神社のある出町柳まで。



7月下旬〜8月下旬

 勤務校が夏季休暇の間は、朝、播磨灘沿いを自転車で走って、汗をかいてから出勤しています。今年も、毎日10キロから30キロ走りました。明石の海岸沿いには兵庫県道554号という自転車道があり、サイクリング、ウォーキング、ランニングを愉しむ方々が早朝から利用しています。陽射しが強くなる前に、潮風を浴びながら・・



8月4日

 兵庫県の西部・西播磨にある龍野の古い町並みを訪れました。小京都と呼ばれる旧城下町がそのまま残っています。龍野城址や醤油工場、聚遠亭の日本庭園、そして紅葉谷と観光スポットが多いです。また寅さんの映画の舞台でもあり、第17作の「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」では、マドンナが太地喜和子で、龍野の料理旅館・梅玉が使われていました。此処の庭には「片しぼ」という独特の竹があります。

 龍野の古い町並みに向かう龍野橋から撮った揖保川の光景です。超広角ズームの広角端いっぱいで、川の流れから、空の雲の流れまでを収めました。



8月12日

 兵庫県の多可町に棚田が続く景色があると聞き、真夏に訪れました。旧加美町の国道427号線から入って、最後は登山道となる行き止まりの道を進むと「岩座神」(いさりがみ)の集落へ。ここはコミュニティーバスしか入ってきません。集落が斜面にあり、棚田が続く光景が広がっています。



  岩座神の棚田は鎌倉時代から続くそうで、、「寺勾配」と呼ばれる石積みの反り返りの美しさが特徴だそうで、また山のわき水を田へ引くために、石積みの間を暗きょが張り巡らされていました。流れの水音が涼しく感じました。



8月18日

  久し振りに奈良・飛鳥を訪れました。天王寺の近鉄阿倍野橋駅から特急で飛鳥駅で降りて、高松塚古墳のある飛鳥歴史公園、欽明天皇陵、亀石を経て橘寺の近くでひまわりが咲誇っていました。



  川沿いに歩いて石舞台古墳へ、十数年ぶりです。その後、お昼過ぎまで飛鳥を散策して、高松塚壁画館に向かう途中で激しい通り雨に遭って・・・。真夏の飛鳥を彷徨いました。



8月21日〜8月27日 「長崎行き」

 6泊で、長崎へ出掛けました。長崎を訪れるのは4回目です。今までは鉄道や航空機でしたが今回は車(軽自動車)です。長崎は、作家・遠藤周作の作品の舞台となることが多い地で、遠藤周作記念館が出来てからまだ訪れていません。また山田洋次監督の「家族」と「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」第20作)の舞台でもあり、また隠れキリシタンの由来の地が多く、今回は、それに加えて島原半島の雲仙・普賢岳と太宰府天満宮、それに宗像大社も廻って行き帰りを含めて6泊7日となりました。

 早朝に神戸を出て、初日(8月21日)は、ひたすら高速道路を西へ…山陽道、九州道、長崎道、西九州道を経て、松浦半島の西の端に浮かぶ平戸島に入った時には、日暮れ前でした。平戸の宿・旗松亭の前から松浦半島を望んだ光景です。



 平戸の街です。台湾・中国では民族的英雄として国姓爺と呼ばれた鄭 成功(てい せいこう)が生まれた島です。オランダ商館が長崎の出島へ移転するまでは、南蛮貿易の拠点であった港町です。写真の右の塔は、聖フランシスコ・ザビエル記念教会です。



 その聖フランシスコ・ザビエル記念教会の内部です。



 平戸の街・・寅さん第20作、「男はつらいよ 寅次郎頑張れ!」の舞台となった町並みです。葛飾柴又で電気工事をするワット君(中村雅俊)と、近所の食堂で働く大竹しのぶが出演している作品で、ワット君の故郷が平戸です。1977年年末に公開された映画なので、36年前・・・



 平戸島には、古くからの教会堂や信者の方々の手作りのような教会も少なくありません。木ヶ津教会は、昭和36年に猶興館高校の体育館が建て替え工事の時の古い資材を活用して出来た木造の教会です。山間の細い県道から、さらに外れた集落の中にあります。



 今は平戸市になっていますが、平戸大橋を渡った松浦半島の田平にある田平天主堂です。大正7年に建立されたレンガ造りの大きな天主堂です。



 平戸島から更に生月大橋を渡って生月島へ。この島は初めでです。かくれキリシタンの信仰を守られておられる方々がまだ少なくなく、禁教時代の殉教の地が多くある島です。此処は…殉教の地・「ダンジク様」です。キリスト教の弾圧が激しくなって、生月島を離れて五島列島に渡ろうと、断崖の下のダンジク(暖竹)の森の中に隠れ住んでいたのを海上の舟から役人に見つけられて全員処刑されたという殉教の場所です。



  車の通る断崖の上の道から、暖竹の森の急な坂道を下って、岩がゴロゴロしている海岸に降りるのも大変な場所でした。



 生月島の北の端・大バエの灯台からの眺めです。向こうに見える島影は的山大島で、その向こうに壱岐島があり、その更に北には対馬があります。



 この辺りは、観光客が訪れることも疎らのようで、8月下旬にもう稲刈りのシーズンで、藁束が無造作に県道沿いの歩道に干していました。のどかな風景が広がっています。



 平戸で3泊して、毎日朝夕平戸温泉につかって…4日目(8月24日)は、平戸を後にして佐世保から西彼杵(にしそのぎ)半島を縦断して長崎市内へ向かいます。その途中で九十九島へ立ち寄りました。



 佐世保の街に戻って、国道202号線をひたすら南へ向かって針尾島から西海橋を渡って西彼杵半島へ。寄船鼻に立ち寄って、外海の西海岸沿いをドライブ…、面高、天久保、黒口、太田和、中浦、七釜、多以良、大瀬戸、神浦を経て、お昼過ぎに大野に至りました。この大野の集落の山奥に大野教会があります。この建物はド・ロ神父が設計して明治26年に建てられた教会堂です。



 教会の外壁は、石積みの壁で平屋の瓦葺きです。大野教会は、ここから4キロ南にある出津教会まで行くのが困難な高齢者の為に、神浦と大野の集落の信者26軒のためのものだったそうです。手作りの教会・・・



  大野の集落の南には、赤首の集落があり、その南に出津の集落があります。ここには大きな出津教会があり、外海を一望できる海の見える丘の上に「沈黙の碑」があります。遠藤周作の小説「沈黙」の舞台となったのが、この辺りの外梅です。石碑には、

 「人間が
    こんなに
  哀しいのに
    主よ
  海があまりに
    碧いのです。」

    遠藤周作



 出津を南に向かうと、岬の小高い丘の中腹が「夕陽が丘」と名付けられて遠藤周作記念館がありました。そして赤いレンガ造りの黒崎教会を経て、黒崎の集落、ここの海岸は砂浜ではなくて、黒い石がゴロゴロしています。映画化された「沈黙」の私のイメージは、まさにこの海岸・・・



 長崎の街の西に浮かぶ伊王島、以前来たときは船で島に渡りましたが、今は橋で結ばれています。伊王島は、かつては炭鉱の島でしたが、閉山後は、リゾートアイランドとして生まれ変わっています。

 この伊王島は、山田洋次監督の映画「家族」の舞台となった処です。伊王島の炭鉱夫が、北海道での酪農・開拓に向かう列車と青函連絡船の旅がメインの映画で、伊王島から中標津までの1週間ほどの間に家族5人のうち2人を失うというスト―リーです。その家族の出発をこの馬込天主堂の神父が見送るシーンと同じ構図の写真です。



 東京の上野で娘を亡くした後の回想シーンで、馬込天主堂での結婚式の場面がありました。



 長崎の街です。神戸も坂が多い街ですが、神戸の街は、坂の向こうが六甲山系の山裾までで、その坂の先は山です。でも長崎は、山のてっぺんまで町並みが続いて、見ているだけで壮観です。写真はJR長崎駅のすぐ近くです。



 長崎の街にある日本二十六聖殉教者堂(大浦天主堂)です。プティジャン神父によって幕末の元治2年(1865年)に完成された国宝の教会です。当時はフランス寺と呼ばれていたそうです。

 その年の2月12日(旧暦)に、浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、祈っていたプティジャン神父に「ここにおります私達はみな貴方様と同じ心でございます。」とささやき、「サンタ・マリアの御像はどこ?」とプティジャン神父に訊ねたそうです。禁教・迫害の長い歴史の中で250年以上の間、密かに信仰が受け継がれてきたことがカトリック教会に明らかになった「信徒発見」の奇跡があった処です。



 5日目(8月25日)は、お昼前から島原半島に向かいました。普賢岳、平成新山、火砕流の痕を現地でこの目で見たいと思いながら、今回の長崎行きでは断念していたのですが、やっぱり気になって、予定していた長崎市内の観光を止めて…

 普賢岳・平成新山、そして火砕流が流れた斜面、この下に集落があったのですが、今は低木の林に包まれていました。



 北上木場です。ここに集落があったのですが…今は緑に包まれています。地図には、道路が描かれているのですが、みんなこの緑の低木の木々に覆われています。大きな駐車場があるのですが、荒れ果てて…今は訪れる人も多くないようです。ただただ静かでした。

 ここのは民家50軒ほどの集落があったそうですが、火砕流が一帯を呑み込み、水無川沿いに火の海となったそうです。今から22年前のことです。



  6日目(8月26日)は、長崎バイパスから九州道を経て、太宰府へ。太宰府天満宮は、右大臣だった菅原道真が太宰府・権帥となり、2年後に同地で亡くなった後に、都で疫病や異常気象など不吉な事が続いたことを、「道真の祟り」と畏れて、道真の墓所に社殿を造営したのが、太宰府天満宮のはじまりだそうです。

 「東風ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」

 道真が都を発って太宰府に赴く時に詠った歌だそうです。都の道真の屋敷の庭には桜と梅と松があったそうで、桜は、道真が太宰府に赴いてからは哀しみで枯れてしまったそうですが、梅と松は、道真を追って空を飛んだそうです。しかし、松は途中で力尽きて摂津国八部郡板宿の丘に降り立ったそうです。現在の神戸市須磨区板宿です。飛松と言う地名が確かにあります。そして梅は、見事に一夜のうちに太宰府まで飛んで・・・、それがこの飛梅です。
 



 太宰府から九州道を経て、古賀ランプで降りて、宗像へ向かう途中、国道495号線沿いの海岸の風景に、車を停めて撮った写真です。津屋崎海水浴場・・・超広角ズームの広角端10mmでも思い通りのイメージが入りきれなかった広大な遠浅の海辺と天空まで発達した夏の真っ白な雲。昨年の思い出深い写真の1枚です。



 神湊港からフェリーに乗って、宗像大島へ。ここに宗像大社の中津宮があります。宗像市内の宗像大社・辺津宮は参拝客が多いようですが、この離れ小島の中津宮を訪れる人は少ないようです。

 宗像大社とは、沖ノ島の沖津宮、宗像大島の中津宮、そして宗像市内の辺津宮の総称だそうで、弁天様の総本宮で、裏伊勢とも言われているそうです。天照大神とスサノオとの誓約(うけい)の際に天照大神の息から生まれたのが宗像三女神だそうです。

 宗像大島の中津宮には織姫を祀る織姫神社と牽牛を祀る牽牛神社が摂社として祀られています。



 宗像大島には、干潮の時に地続きとなる小夜島があって、道祖神が祀られています。島内には民宿が何軒かあり、釣り客等、泊りがけで訪れるようです。島内のメインストリートです。



 宗像市内の辺津宮には、本殿とは別に高宮祭場があります。神社のもっとも奥まった処です。



  宗像大神の降臨の地で、神籠(ひもろぎ)・磐境(いわさか)という神社信仰の祭祀の原点とも言われる古式祭場です。日本に古くからある自然崇拝(アミニズム)の名残かもしれません。


  宗像市内で一泊して、翌日は九州道、中国道経由で、夕方には神戸に戻りました。軽自動車で神戸ー九州は、かなり疲れます。

 今回の長崎行きは、「山田洋次」、「遠藤周作」、「天主堂」、「かくれキリシタン」、「雲仙普賢岳」、「飛梅」、そして「宗像神社」と6泊7日にしては盛り沢山でした。


9月24日

  6月に提出していた学位論文が、7月の公聴会を経て、9月初旬の教授会で承認されて、9月24日に学位・博士(学校教育学)の授与を受けました。学長室で計7名のささやかな学位授与式でした。

 今まで学会発表や学術論文、大学の紀要や国際会議等で、それぞれ発表していた内容を、学位論文としてまとめて著述をはじめたのが3月、およそ3ヶ月は、結構集中しました。学位論文提出後は、公聴会に備えてプレゼンテーションの準備があり、公聴会のあった7月は勤務校の授業や試験、成績処理に加えて、校務分掌の進路指導のもっとも忙しい時で、私のキャパシティーを超えたオーバーロード状態が続きました。



10月14日

 山城の竹田城址、此処も数年ぶりで訪れました。但馬国の朝来にある全国一の山城遺跡…室町時代の嘉吉年間(15世紀中頃)に築城されたそうで、播磨国守護赤松氏と但馬国守護山名氏との間が臨戦状態で、将軍・足利義教が播磨国守護・赤松満祐によって暗殺された嘉吉の乱もこの嘉吉年間です。当時の竹田城は播磨国と但馬国の国境を守る拠点だったようです。

 天空の城・・・といった雰囲気で、四方八方を眺めることが出来る絶景です。




10月21日

 布引の滝、神戸の市街地から、それほど遠くない処にあるのですが、山路を十数分歩くので・・・此処に来るのは十数年ぶりです。森林の中を歩いて、次第に滝音が大きくなって、滝の姿を見た時には、心が洗われるような気分になります。その後、市ヶ原、布引貯水池、そして布引ハーブ園まで・・・ちょっとした登山でした。



10月28日

 岡山の備前にある閑谷学校、ここも今年、久し振りに訪れました。岡山藩主の池田氏によって開設された日本最古の庶民学校です。藩立の寺子屋・手習所のようなものです。

 江戸時代には、「学校」を名乗れるのは、鎌倉時代からあった足利学校と閑谷学校だけです。幕府の昌平坂学問所(昌平校)のみが江戸期の「学校」なのですが、さすがに昌平校より古い歴史を持つ足利学校と閑谷学校には遠慮したという話を聞いたことがあります。

 国宝の講堂です。




 閑谷学校は明治3年に閉校されますが、明治6年には、幕末の備中松山藩の財政立て直しをした山田方谷が閑谷精舎として再興し、弟子の育成に生涯を捧げました。山田方谷の弟子には、二松学舎の創立者である三島中洲、そして漢学者の川田甕江がいます。



11月4日

 播磨路をドライブして、加古川沿いにさかのぼって、小野市で目にした稲刈り直後の切り株が整然と並ぶ光景…

 何日かすると、稲株から蘖(ヒコバエ)が芽を出して、寒波が襲来するまで青々と育つのだろうなあ〜と思いながら田んぼに寝そべるようにしてシャッターを切りました。




12月6日

 仕事帰りにJR元町駅で途中下車して、初日のルミナリエ会場に向かいました。暗闇が広がる神戸の街の旧居留地の一角が、光の渦と、人の渦で輝き、賑やかです。



 数年前から、携帯やデジカメで撮る人が目立ち、昨年ぐらいからはスマホでの撮影が圧倒的に増えたように感じます。 



 東遊園地の慰霊と復興のモニュメント、この光輝く輪の中は、たくさんの人が渦巻いていました。