大宰府天満宮


2012年8月26日


 平戸島で3泊、長崎市で2泊して、長崎を後にする朝です。長崎の市街地を南北に走る大波止通り(国道499号線)の南の市民病院前の交差点にある長崎バイパスの入口へ。



 ETCに対応していないので、無人機械清算機のあるレーンで、窓から身を乗り出して硬貨を投入しました。



 長崎バイパスを経て、ここから長崎道です。



 長崎市へは、平戸・佐世保から西彼杵半島を経ましたが、長崎道は西彼杵半島とは大村湾を挟んだ東側の東彼杵半島を長崎道は通っています。今村PAから大村湾越しの西彼杵半島の眺めです。



 長崎道を北上して…武雄ジャンクション(行きは、此処から西九州道に入って佐世保を経て長崎へ向かいました)を更に北上して佐賀県に入って、鳥栖ジャンクションからは九州自動車道を北上、日曜日ということもあってか、かなり通行量が多くなりました。そして大宰府ICで降りて、国道3号線を大宰府天満宮へ向かいました。



 観光用の駐車用は、大宰府天満宮から4〜500メートル離れた処でした。歩いていくと…西鉄太宰府駅がありました。西鉄太宰府線の終点の駅です。改札越しに頭端式ホームが見えます。



 まだ朝早い時間帯でしたが、参道は観光客でにぎわっていました。



 まだ朝早い時間帯でしたが、参道は観光客でにぎわっていました。



 外国からの団体の観光客が目立ちました。



 菅原道真の歌碑です。

「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」



 太宰府天満宮にある心字池には、太鼓橋・平橋・太鼓橋の三つの赤い橋が架かっており、それぞれが三世〜過去世・現在世・未来世、〜を表しているといわれます。歌手・さだまさしの唄「飛梅」の歌詞に

 心字池にかかる 三つの赤い橋は
 一つ目が過去で 二つ目が現在(いま)

下の写真は1つ目の太鼓橋です。「飛梅」の歌詞では続いて…

 三つ目の橋で君が 転びそうになった時
 初めて君の手に触れた 僕の指

「飛梅」の歌詞では、その後の歌詞で

 あなたがもしも 遠くへ行ってしまったら
 私も一夜で飛んでゆくと云った
 忘れたのかい 飛梅



 本殿に近づくにつれて、人通りがどんどん多くなってきました。



 楼門です。この向こうが本殿です。



 そして本殿…右側が飛梅です。



 道真が都を発って太宰府に赴く時に詠った歌

「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」…

都の道真の屋敷の庭には桜と梅と松があったそうで、桜は、道真が太宰府に赴いてからは哀しみで枯れてしまったそうですが、梅と松は、道真を追って空を飛んだそうです。しかし、松は途中で力尽きて摂津国八部郡板宿の丘に降り立ったそうです。現在の神戸市須磨区板宿です。飛松と言う地名が確かにあります。そして梅は、見事に一夜のうちに太宰府まで飛んで

・・・それがこの飛梅です。 



 本殿の左側には皇后の梅、大正13年に貞明皇后(大正天皇后)が参拝の折に、葉山の御用邸から 持参した梅の木を手植したそうです。



 国立の博物館は、東京、京都そして奈良にそれぞれ100年以上の歴史を誇る博物館がありますが、4番目の国立博物館として7年目に九州国立博物館が、太宰府天満宮に隣接してできました。残念ながら今回は、宗像神社行きを計画しており、今晩は宗像に泊まるので、またの機会に…。



 境内では、相撲大会が開催されていました。



 「注連打奉納相撲大会」だったようで、朝は子どもで、午後には大人の取り組みもあったようです。



 地元では大きなイベントなのか…優勝した子どもはインタビューを受けていました。



 私のイメージでは、博多の街から離れた小さな神社を想像していたのですが、参道に土産物屋が並び、浅草の仲見世や京都の清水坂のような感じです。



太宰府天満宮から帰る人よりも、これから太宰府天満宮へ向かう人が多かったです。



 梅ヶ枝餅…一説によりと、道真が太宰府に赴任した当時、悄然として安楽寺の門前を歩いていると、そこで餅を売っていた老婆が道真に元気を出して欲しいと餅を差し出したそうで、これが道真のお気に入りとなったそうです。そして道真の死後に、老婆が餅に梅の枝を添えて墓前に供えたのが梅ヶ枝餅の始まりだそうです。



 別の説では、道真が左遷後当初は軟禁状態だった時に、食事もままならず、そのことを察した老婆が道真の部屋に、格子越しに餅を差し入れするとした時に、梅の枝の先に刺して差し入れたという話もあるそうです。