大浦天主堂


信徒発見、2012年8月25日


 出島から市電に乗って、大浦天主堂下まで。元治2年(1865年)に建立された日本最古の天主堂(教会堂)です。長崎の中でも人気スポットで、大浦天主堂への坂道の両脇には土産物屋が並んでいます。



 早朝にも関わらず、結構土産物の店が開いていましたが、まだ観光客はまばらでした。


 振り返ると…長崎湾の海面と対岸の山々が朝日を浴びてきれいでした。



 土産物屋さんの向こうに、大浦天主堂が見えました。



 まだ禁教下の幕末だった時に、日仏修好通商条約に基づき、フランス人の礼拝堂として建設されたものです。



 正式名称は「日本二十六聖殉教者天主堂」で、26聖人の殉教地である聖地、西坂の丘に向かって建てられています。



 元治元年(1864年)に、フランス人宣教師プチジャン神父の協力の下、、ジラール神父とフューレ神父の設計図によって、天草出身の棟梁小山秀之進が建設した天主堂です。



 正面中央の壁はバロック風で、外壁はナマコ壁という和風建築との混合様式をしています。正面は信徒発掘を意識し、きらびやかな飾りを施したそうです。



 天主堂の正面に「日本之聖母」〜信徒発見祈念〜慶應元年3月17日と台座に刻まれた白亜のマリア像があります。

 天主堂の向かって右の小祭壇にある「聖母子像」が、信徒発見のサンタマリア像。建立当時は、フランス人信徒の教会で、「フランス寺」といわれていたそうです。プチジャン神父は教会の正面に日本語で「天主堂」と書き、禁教下で信仰を密かに継承した潜伏信者が現れるのではないかという期待を持っていたそうです元治2年2月12日(新暦の1865年3月17日)に、天主堂を参観にきた浦上山里村の杉本ユリら潜伏キリシタン15人がプチジャン神父に、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」(私たちもあなたと同じ信仰をもっています)「サンタマリアの御像はどこ?」とプティジャン神父に訊ねたそうです。禁教・迫害の長い歴史の中で250年以上の間、密かに信仰が受け継がれてきたことがカトリック教会に明らかになった「信徒発見」の奇跡です。

 このマリア像は、信徒発見という世界のキリスト教徒を感動の渦に巻き込んだ歴史的奇跡を記念してフランスから贈られたマリア像だそうです。プチジャン神父はこの像を天主堂の門前に据付け、日本信徒発見の記念祭典を盛大に催したそうです。「日本之聖母」という称号は、プチジャン神父が命名したようです。



 国宝に指定され、観光客が増えたために、現在は、大浦天主堂の向かいにカトリック大浦教会の教会堂を立て、そこでミサを執り行っています。



 天主堂の中は撮影禁止なので、外から垣間見るようにして撮影した写真です。



 大浦天主堂の隣にある長崎公教神学校の校舎兼宿舎です。現在はキリシタン資料室として公開されています。



 出口の付近にも土産物屋さんが並んでいます。以前、此処に遠藤周作が立ち寄った「長崎十六番館」という土産物屋があり、その中で踏み絵が展示されており、遠藤周作はそれを目にして、小説「沈黙」の発端となったそうで、私も以前訪れて、その踏み絵を目にしたことがありましたが、「長崎十六番館」は移築されたそうで、今回の長崎行きでは、訪れることができませんでした。