紐差教会


2013年8月23日


  宝亀教会から、国道383線を更に南に南下して、木ヶ津(きがつ)湾の一番奥に紐差(ひもさし)の町があります。紐差は平戸島の中部に位置する大きな町です。その町の中心部の小高い丘の上に紐差天主堂がそびえています。



 紐差教会はひじょうに大きな天主堂で、長崎の旧・浦上天主堂が原爆で破壊された後の一時期は、紐差教会の天主堂が日本最大規模だったそうです。


 大浦天主堂における「信徒発見」の後に、江戸期の禁教時代に潜伏していたキリシタンへの宣教の目的で明治11年(1878年)に平戸島にペルー神父が訪れました。平戸中部で納戸神を持った潜伏キリシタンを発見して、受洗へと導き、草積(紐差の西側の集落)に仮の御堂を建てたそうです。その後多数の潜伏キリシタンを発見して、紐差に布教の中心を据えて田崎に建てた聖堂が紐差教会の発端となったようです。



 明治18年(1885)にラゲ神父が着任、教会と司祭館を田崎から紐差に移して旧・紐差教会堂を建設したそうです。完成時にはラゲ神父は平戸を離れてクーザン司教によって祝別されパリ外国宣教会によって宣教活動が行われたそうです。ラゲ神父は宣教活動とともに聖書翻訳も行い、長く日本カトリック教会の標準訳だった「ラゲ訳聖書」は、このラゲ神父の訳によるものです。



 現在の教会堂は昭和2年(1927年)着工で昭和4年(1929年)の完成です。



 紐差教会の天主堂の設計者は、長崎県を中心に九州で数多くの教会の建築を手掛けた鉄川与助です。



 天主堂の裏にある「十字架山」です。



 そして天主堂の庭内にあるルルドです。



 壮大な天主堂で、いろいろな角度から見ると、また違った印象を感じます。



 天主堂の正面左側から見上げた写真です。



 紐差天主堂から、次に向かったのは根獅子(ねしこ)です。根獅子は平戸松浦氏の家臣の籠手田氏の所領だった処で、領民のほとんどがキリシタンとなり、多くの殉教者がでたそうです。平戸島の東海岸・紐差から西海岸・根獅子までは、それほど距離はないのですが、直接2つの集落を結ぶ道路がないので、山越えの細い道を通って根獅子に向かいました。



 山間(やまあい)の細い道を進むと,山の中腹に棚田が広がっている光景と出会いました。根獅子の浜から数百メートル西側辺りです。



 車を停めて、棚田の写真を何枚も写真を撮りました。



 超広角のレンズで、棚田が広がる山腹一帯を撮った写真です。



 田んぼを荒らす動物が出現するようで、田んぼの周囲には電線が巡らされていました。



  周囲一帯、人家も送電線も見えない長閑な光景が広がっていました。