冬の舞子海岸

2007年1月9日

 

舞子海岸、明石海峡、淡路島
(&移情閣、明石海峡大橋)


今年は中原中也の生誕100年です。
中也の「在りし日の歌」に収められている
“冬の長門峡”にちなんで、冬の午後の
明石海峡を望む舞子海岸をまとめました。
(冬の長門峡は、このページの最後に・)

動画

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舞子ビラ別館にある中華レストラン・海蛍


この舞子ビラは、有栖川別邸跡にあり、更に遡れば、
舞子にあったお城に辿り着くことが出来ます。

 舞子には、烏崎城というお城がかつてありました。
将軍足利義教が暗殺された「嘉吉の乱」(1441年)
において、義教を暗殺した赤松満祐と教康の親子は
追われて、この舞子の浜の烏崎に城を構え防戦し、舞子
一帯も戦渦に巻き込まれたそうです。

 その烏崎城址に、明治20年代に入って、有栖川宮
熾仁親王が別邸を建てました。当時の舞子は山陽鉄道
(現・JR神戸線)が開通して、神戸・大阪からも
便利になった景勝の地だったようです。

 舞子の烏崎城址に別邸を建てた有栖川宮熾仁親王
という方は、幕末に孝明天皇の皇妹和宮様と婚約して
いました。その後、公武合体策の一環として和宮様は
徳川家茂と結婚することになり、熾仁親王との婚約は
破棄されたのですが、私が何度か読み返した有吉佐和子
さんの小説「和宮様御留」の中でも”有栖川宮様”
の名前は何度か登場します。

 有栖川宮熾仁親王は、その後明治天皇の篤い信望も
あって、日清戦争では陸軍大将の地位にありました。
戦中に病に倒れて舞子の別邸で長く静養されていた
時期もあったようです。ちなみに「宮さん宮さん、
お馬の…」というトコトンヤレ節の宮さんとは、陸軍
大将・熾仁親王だそうです。

 その後、烏崎城址に建てられた別邸は、戦後は廃墟
のようになってしまって、その跡地に建てられたのが
舞子ビラです。その中でレストランの名前として
有栖川は残っています。東京の広尾にある有栖川宮
記念公園は、熾仁親王の母親の住まいだったようです。



  
明石海峡は神戸大阪と瀬戸内海・九州を結ぶ重要な海路、
たくさんの船が航行しています。特徴のある建物が移情閣、孫文
ゆかりの建物です。孫中山記念館として公開されています。


  
前菜、フカヒレと湯葉のスープ、貝柱・・・。良い景色を眺めながらの食事は格別です。


  
舞子ビラの本館の窓ガラスに海峡の輝く海面が映されて綺麗でした。 
ゆったりとしたランチタイム、とうとうデザート、名残惜しかったです。



冬午後の陽の光に明石海峡が黄金色に眩く輝いていました。


動画

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松の美しい舞子ビラの庭からの眺めです。


  
食後に移情閣へ、中に入るのは初めてです。


  
移情閣は、孫文記念館として公開中しています。神戸に実業家・呉錦堂の
別荘「松海別荘」が前身で大正15年に八角三層の楼閣「移情閣」が建てられ
ました。外観が六角に見えることから、地元では「舞子の六角堂」と呼ばれて
いました。孫文が大正12年に神戸を訪れた時以来、深い関わりが続いた
そうです。明石海峡大橋建設に際して解体後復元されました。


  
移情閣からの明石海峡の眺めも格別でした。ガラス越しにレトロな雰囲気を醸し出していました。


 
移情閣・楼閣の一階、孫文の胸像と多数の額がありました。



数年前に訪日した国務院の朱鎔基総理の直筆


 
2階への趣深い階段

  
2階では呉錦堂と移情閣に関する資料がありました。


  
2階からの眺めは、また違った雰囲気でした。



海峡に浮かぶ小舟の舟影が、なんだか長閑に映えていました。


  
神戸空港が開港され、明石海峡の海路の上には空路も・

我が家の2階、寝室の枕元からも寝ながらにして
飛行機を見ることが出来るようになりました。


冬の長門峡

長門峡に、水は流れてありにけり。
寒い寒い日なりき。

われは料亭にありぬ。
酒酌(く)みてありぬ。

われのほか別に、
客とてもなかりけり。

水は、恰(あたか)も魂あるものの如く、
流れ流れてありにけり。

やがても密柑(みかん)の如き夕陽、
欄干(らんかん)にこぼれたり。

ああ! ――そのやうな時もありき、
寒い寒い 日なりき。

中原中也  在りし日の歌 、 青空文庫より
http://www.aozora.gr.jp/